ある男の記録その二



「哲弥...タイミング逃しとるで」
十年ほど前、目下に海が見えたその瞬間に
缶ビールを開けると同時に彼はそう言った。
何故かずっとその言葉を憶えていて
今しかないその瞬間を意識するようになった。
明石海峡を眺めながらビールを飲んだり
芦屋の迎賓館のテラスで葉巻を吸ったり...
今この場所で何をしたら最高かを彼は知っていた。

到着した夜は楽しそうに夢を語った。
「とある銀河郵便夫の一日の出来事」
この短編映画を撮るために会いに来たと言う。
監督は妻の由希、主演は私、撮影は彼がやるらしい。
映画の話も急だし、そもそもどれだけ滞在するかも
聞いていないが、そこが彼の魅力なのは間違いない。
八十年前のチェコのモーターサイクルスーツや
五十年前の英国ラレーの自転車が家に運ばれて
冗談じゃないことを証明した。
「遊びやないで。本気やからな」
と言い残して明け方に眠った。

それが翌日から彼は酒に溺れた。
「哲弥...タイミング逃しとるで」
と言った昔の面影は微塵も感じられなかった。
朝からウォッカを呷る姿を可哀想に思ったし
もう素面では制作意欲が湧かないことを知った。
映画の撮影はしたが、彼は酔っぱらってフラフラ
手にしたカメラもブレブレでどうしようもなかった。
ただ撮影中の彼は幸せそうにずっと笑い転げていた。
家に帰ってから撮ったばかりの映像を確認するも
彼は撮影中のことを何ひとつ憶えていなかった。

text by : tetsuya

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ある男の記録その一



彼と会うのは一年振りになる。
午後十時、飄々と姿を現すも彼は言葉を発さない。
黙って家に入り住人のようにソファーに腰をおろすと
手にしていた携帯から「男はつらいよ」が流れた。
歌が終わるなり彼は家を出て荷物を運び始める。
車は運転席が何とか空いているという具合で
天井まで隙間なく作品が詰め込まれている。
この後も彼は数日に渡り車と駐車場を五十往復はした。

名古屋の高速で拘束されたという彼は疲れ果てている。
それでも庭に咲く花を古いガラス瓶に生けたり
家中に詩集や画集を並べたりと落ち着かない。
それに調和するように置かれた作品の中に
見覚えのある帽子の男を見つけた。
私が二十歳の頃に描いた絵だ。
確か玄関戸の覗き穴に合わせて描いた絵を
彼が気に入り持ち帰ったのだ。
その男が額装され蝶ネクタイを着けている。
まるで昔の自分に会ったような感覚に陥り
タイムスリップしたみたいに
十六年前の記憶が頭の中をぐるぐると回る。

あの頃の彼は私にとって憧憬の人だった。
作品には彼なりの美学が投影されていて
圧倒的な存在感を放っていた。
紙巻き煙草を吹かしながら
絵画や建築の話をする時の彼の瞳は
夢見る少年のように輝いていて
私はそんな彼が好きだった。

text by : tetsuya

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名もない宿



せっかくの連休だというのに何も予定がなかった。
体調が悪くて予定を立てることすらできなかった。
子供たちと一緒にどこか遠くへ出掛けたかったが
いまだに体が痒くて長いこと車を運転することもできない。

連休を目前にして浮かれるふたりを横目に
どうしようかと思っていたが何の心配もなかった。
途切れることなく友人が佐原に遊びに来てくれて
家に居ながら旅をしているような気分で過ごすことになった。
古い日本家屋の客間にいくつもの布団が敷かれていると
まるでどこかの宿に泊まっているような錯覚をおぼえる。

これまでは眠りたくても眠れない日々を送っていたが
連休中はそんなことを忘れるくらい倒れるように眠りに落ちた。
自由に生きる大人のくだらない話は尽きることなく
誰も寝ようとしないから真夜中までずっと笑い声が響いていた。
朝が来る直前にようやく疲れ果てて眠ったはずが
朝日が差すと眠気は一気に吹き飛び、また新しい一日が始まる。
しばらく呑んでいなかった酒も好きなだけ呑んだ。
たとえ余計に体調を崩しても目の前にある今を楽しみたかった。
何もかも我慢していたら心までもおかしくなりそうな気がした。

「なんで病院に行かないんだよ」とか
「この漢方薬を飲むと治まるよ」とか
「せめて原因だけも診てもらえ」とか
皆に怒られたり、心配されたりもしたが
日々を楽しんでいるうちに不思議と体調は良くなった。
酒も睡眠も気にし過ぎて逆に良くなかったのかもしれない。
痒さも忘れるほどに笑っていたことが何よりの治療となった。

楽弥も希舟も興奮してほとんど眠らなかった。
布団に入っては抜け出してを飽きずに何度も繰り返した。
朝になったら誰もいなくなっているんじゃないかと心配して
今にも閉じてしまいそうな目を意地になって見開いていた。
朝は朝で友人の声が聞こえるとすぐさま目を覚ます。
もっとゆっくり眠っていればいいのにと思うけれど
子供も子供で楽しい時間を一時も無駄にしたくないようだった。

せっかく遠くから遊びに来てもらっているのに
家にいるばかりでこれといったことは何もしていない。
したことといえば...朝っぱらから白鳥を見に土手を散歩したり
金網の穴をくぐり抜けて珈琲しかない寂れた喫茶店に入ったり
ジャンケンで負けた友人に大きなケーキを買ってもらったりと
たいしたことはしていないが、子供に戻ったような時間だった。
家に帰ると誰かが縁側の日だまりで寝転んでいて嬉しくなる。
花の咲く庭から希舟の吹くシャボン玉が空高く飛んでいく。

楽弥は大好きな友人の膝に乗ってずっと嬉しそうだった。
大人の笑い声が響く度に一緒になって抜けた前歯を見せて笑う。
泥団子を作る子供と一緒に泥だらけになっている大人もいる。
人生を謳歌している大人が集まることが
この家の唯一の自慢かもしれない。

「ねぇ今日は誰が来るの?」
小さい頃からそれが口癖のふたりは
いったいどんな大人に成長していくのだろう。
親として子供に教えられることなんてないが
大人になることは最高に楽しいことなんだと感じてもらえたら
それ以上の喜びはない。

photo by : kentaro shibuya

text by : tetsuya

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まっ黒の葉っぱ

「パパ...葉っぱみたいになってるよ」
寝起きの楽弥が着替えていた私の体を見て驚いている。
その前夜にも風呂上がりの私を見て
「パパ...ここから下がまっ黒じゃん」
と小さな胸に両手で線を引きながら目を丸くしていた。
確かにそれは自分の体ではないかのように黒ずんでいた。

今年に入ってからずっと具合が悪かった。
背中に発疹ができたのを発端に全身が痒くなり
掻きむしって体はどこも傷だらけになっていた。
原因は酒か煙草か睡眠不足といったところだろうか。
それにしてもこんなに長い闘いになるとは思っていなかった。

元々ゆっくり眠れない性質ですぐに目が覚める。
展示会が迫っていた時期はさらに眠れなくなり
起きたら起きたで眠ろうともせずにアトリエに向かっていた。
早朝三時の新聞配達のカブのエンジン音と共に。

展示会までは何てことないと自分に言い聞かせながら
酒を減らすでも煙草を減らすでもなく騙し騙しやっていたが
展示会が終わると同時に地獄のような日々が始まった。
腕を少し掻くと痒みが首へ背中へ足へと全身に移り
気が付くと三時間も体中を掻きむしっていたりして
そんな自分に嫌気が差して頭が狂いそうだった。

たまに刺繍に集中している時間もあるが
手を止めたその瞬間に全身に痒みが走る。
風呂に入れば体が温まり余計に痒みが増すし
布団に入れば気が緩むからか強い痒みが襲う。
それが怖くて風呂にも布団にも入れなくなり
夜は車の中で毛布に包まって過ごした。
不思議だけどパジャマに着替えると途端に痒くなるのだが
洋服のまま横になれば気を張っているのか少しは楽になる。
朝が来るまでどうにか痒さをごまかして眠ったふりをした。

毎晩呑んでいた酒はほとんど呑まなくなった。
酒が原因でこんな風になったとは限らないのだけれど
痒さで頭がいっぱいで呑みたいとさえ思わなくなった。
これまで呑み過ぎた酒を体から抜くつもりで
血だらけになるまで我を忘れて体を掻きむしった。
友人に病院や薬を勧めてもらったりもしたが
体から出る毒を薬で抑えようとする気にはなれなかった。
昔から病院も薬も嫌いで病気は自然に治ると思っているので
顔が腫れ上がり別人のようになっても掻くしかなかった。

掻きむしるうちに皮膚は傷つき黒ずんでいく。
かさぶたができた途端にまた掻いて血だらけになり
かさぶたが重なり皮膚が葉っぱのようになっていく。
それもあってかドライフラワーを気持ち悪く感じたり
複雑に編まれたアンティークレースに恐怖を感じたり
視覚までおかしくなってしまった。
これまでたいした病気をしたことがなかったので
健康であることがどれだけ大事か身を以て知った。

妻も息子も支えてくれて感謝している。
驚いたのは娘の希舟だ。
痒みと痛みで苦しい時に決まって走ってきて
「痒いの痒いの〜お空に飛んでけ〜」
と両手を大きく振って追い払ってくれるのだ。
「痒い」という言葉すら本当は聞きたくないのだが
何度も呪文のように繰り返すので段々と笑えてきて
そんな彼女の無邪気さに救われた。

これまで好き勝手にやってきた代償は大きいが
色んなことを違った角度から見ることができた。
毛布を捲り朝日が差しているのを見て幸せに感じたり
いつも食べているご飯がものすごく美味しく感じたり
これまで当たり前に流れていた日々に感謝した。

「パパ...葉っぱとれてきたよ」
楽弥はずっと私の体を気にかけてくれている。
それを聞いて希舟が走ってきた。
「ほんとだ...もう痒くないよ」
いや痒さは一向に治まらないが
私は息子を主治医、娘を看護婦と呼んでいる。

text by : tetsuya

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無駄な時間

黒ばけもの展が終わり
散らかっていたアトリエをようやく片付ける気になった。
段ボールの山にはCDとレコードがぎっしりと詰まっている。
それも安価で買ったはいいが一度しか聞いていないものばかり。

いつも音楽を聴きながら制作しているのだが
ただ好きな曲ばかりを流しているのではない。
適当に買ってきてそれを順番に流していくのだ。
一曲聞いて外れだと思っても我慢して聞いていると
七曲目くらいから急激に良くなるなんてこともある。
そんな実験のようなことを制作中ずっと続けていた。

「我慢し続けて良い曲に出会った時の感動はすごいよ」
なんてことを友人に話したら
「我慢して聞く時間も...それにかけるお金も無駄だよ」
と最もらしいことを言われる。
確かにその通りだと思う反面
この感覚は何かに似ているとずっと思っていた。

後からそれは旅だと気付いた。
初めて行く国のガイドブックを読めないのとよく似ている。
妻が行きたい場所を線で結び計画を立てている横で
私はいつも準備もしないでぼんやりしている。
帰国してから復習はできるが予習ができない。
先に知ってしまうことで感動が薄れるのが怖いのだ。
ルーマニアでも運に任せて歩いて辿り着いた村にこそ感動がある。
行く前からその村を目的地にしてしまったら印象はきっと異なるだろう。
音楽も旅もやはり偶然の出会いに醍醐味があるのだと思う。

例えば日本でも喫茶店へ行こうと下調べなんかすると
嫌でも色々な写真が出てきて他人の評価が星で表れる。
その情報を知ってしまった時点で冒険心は失われてしまう。
食べきれないほど大きなサンドウィッチが有名な喫茶店があるとしても
それを知らずに目の前のサンドウィッチに驚きたい。
美味いも不味いも先入観なく自分の五感で感じたい。

もちろん失敗したり無駄になることもあるが
そんなことを続けていると本当に好きなものが見えてくる。
「どうして自分で何も調べないの?」と問う友人への答えと
「この段ボールの山...どうするの?」と呟く妻への言い訳に過ぎないが。

text by : tetsuya

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黒ばけものと赤いリボン



Pretzelと屋号を付けたのは十三年前。
プレッツェルという名のドイツパンが
腕を組んだ子供のシルエットから形作られていると知り
制作していた子供服のブランド名にぴったりだと思い決めた。
そして同時期に始めた小さな店も妻と腕を組んで歩んでいこうと
この屋号をそのまま店名にした。

それから古物を外国へ買い付けに行くようになり
ルーマニアに魅了され、その地で暮らすことになった。
帰国後は子供服を量産する気にも店を再開する気にもなれず
ルーマニアの村で見てきた刺繍という表現に自然と辿り着いた。

黒ばけもの展の期間中、刺繍を始めたきっかけを
お客さんに訊かれる度にそんなことを振り返っていた。
自分でも今こうして黒い糸で刺繍していることや
DEE’S HALLに作品が並んでいることが不思議だった。

素晴らしい空間で展示できたことはもちろんだけれど
典美さんやチコちゃんやキンタに出会えたことが嬉しかった。
一週間も図々しく家族のような気持ちで暮らしていたからか
思い出すのは典美さんが淹れてくれたコーヒーやスムージーや
チコちゃんの分まで食べてしまった美味しいおにぎりのことばかり。
あと猫のキンタとの距離が少しずつ縮まっていくのも楽しみだった。

夜はこの展示のきっかけを作ってくれた津留くんと呑み歩き
アートについて語った。けれどふたりで考えれば考えるほど
変な方向へと話は進み、アートからかけ離れていく。
「可愛いはナメられる」何度この言葉を口にしたことか...。
でもそんなくだらない話が創作の原動力になるのだと思う。
作品が勢いよく売れた時には人目も気にせず彼とハイタッチした。
それは高価な刺繍をバッグという形態で認めてもらえた喜びだった。

現実が夢のようだったからか夜はほとんど眠れなかった。
どれだけ酒を呑んで寝てもすぐに目が覚めてしまう。
きっと楽しい時間を無駄にしたくなかったのだろう。
最後の朝はすごく静かで卒業式の前のような気分だった。
雨上がりに射す光の中、テラスで名残惜しく
ひとり煙草を吸いながら春を感じていた。
勝手にドキンちゃんと呼ばせてもらっていた典美さんと別れる時は
展示に誘ってくれた有り難さとそれが終わってしまった淋しさとで
胸がいっぱいになった。

そんな気はなかったが、帰り道に十三年前に借りていた店と
通っていた服飾専門学校に足が向いた。原点回帰ではないが
この先どう進んでいくのだろうと想像していた。
ずっと刺繍を続けていくのかと自分に問いかけていた。
そんな時に骨董屋で紙に巻かれたシルクの赤いリボンを見つけた。
「これって中までリボンが続いてるんですかね?」と訊ねると
「分からないけど...これは物体としての魅力だね」と返ってきた。
確かに今ある姿が良ければその先は知らなくていいのかもしれない。
"P"と”F”その色褪せた台紙に記されたふたつのアルファベットが
”Pretzel”と”Frederic”を意味しているように感じられて
それをリュックサックに詰め込んで東京を後にした。



text by : tetsuya

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黒ばけものの絵本

絵本が大好きな子供たちは眠る前に必ず
お気に入りの一冊を妻の枕元に持ってくるらしい。
夜の読み聞かせを何よりも楽しみにしているようだ。
私はいつもみんなが眠ってから帰宅するので
その様子を目にすることはあまりない。

黒ばけものの絵本がようやく完成して
届いたその日は子供たちと一緒に眠ることにした。
この物語だけは自分で読んで聞かせたかったのだ。

夢中になって刺繍と言葉を追う子供たち。
しかし読み進めていくうちに楽弥の頭は混乱した。
「えっ...なんで?どうゆうこと?」
ページを行ったり来たり彼は小さい頭で考えている。
それが私には嬉しかった。
不思議に感じたまま終わるのではなく
彼は自分なりに答えを探そうとしている。

希舟は”おなかとせなかがくっついた”という言葉が
いくら想像しても思い浮かばなかったらしく
「ねぇ...おなかとせなかはくっつかないよ」と
まんまるのおなかを触りながらひとり呟いている。
そんなふたりの姿を見れただけで幸せな夜だった。

text by : tetsuya

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黒ばけもの



黒けもの展が終わった一昨年末。
アトリエはけものたちが旅立ってどこか淋しい空気に包まれた。
壁一面の黒けものがじっとこちらを見ていたのに
しばらくはレモンイエローの壁がしんと静まり返るだけだった。

年が明けて、フォークとナイフを手にした少年が壁に現れた。
何かを食べたそうにじっとこちらを見つめている。
この少年は一体何が食べたいのだろう。

それから一年が経ち、フォークとナイフを手にした熊が突如現れた。
ぎょろりとした鋭い目は少年以上に何かを食べたそうにしている。
どんな物語が生まれるのか私は密かに楽しみにしていた。

「次は黒ばけもの展だよ」と夫から聞いた時
彼らが化けていることを知った。
少年のバッグを手にしてみると中に見慣れないポケットがあった。
そこにはあのぎょろりとした目の熊の顔が刺繍されていた。
もしかしてと思い熊のバッグの中を覗いてみると
やはりそこには少年の顔が刺繍されている。
少年が熊なのか...熊が少年なのか...。
早くも黒ばけものの世界に迷い込んでしまった。

気になってバッグの中を覗いていくと
女の子の顔に子豚の顔が重なっていたり
男の子の顔に猿の顔が重なっていたりする。
それはまるでむちむちのお腹とお尻を揺らして歩く娘の希舟と
飛んで跳ねてすぐにどこかへと走り去る息子の楽弥のよう。
どんな人間にもけものらしい部分があるのかもしれない。

刺繍に夢中の夫は髪も髭も伸ばしっぱなしで馬のようになってきた。
早朝から深夜までアトリエにいるので家にはほとんど居ない。
子供たちは家で夫の姿を見つけると嬉しさのあまり
ふたりがかりで馬乗りになり引き止めようとする。

ひとしきり遊ぶと、楽弥は急に分かったような顔で
「パパは黒ばけもの作るから忙しいんだよ。きっきもうだめ!」
と調子に乗る希舟を諭してアトリエに送り出す。
夫の姿が見えなくなると私に耳打ちをした。
「パパの黒ばけもの...がっくん大好き」
楽弥も黒ばけものが生まれるのを密かに楽しみにしているようだ。

text by : yuki

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ゆきだるま



朝から降り続く冷たい雨。
ラジオから流れる各地の積雪情報に大変そうと思いつつも
どこか羨ましさを感じていた。
息子も同じ気持ちのようで物足りなさそうに呟いた。
「雪、降らないかなぁ」

鼻風邪を引いて、初めて耳鼻科にかかった。
長い待ち時間も重なってか珍しく大人しい楽弥。
ようやく終わった頃には待合室には誰もいなくなっていた。

外に出ると、やわらかな雪がはらりはらりと落ちてきた。
辺りはうっすらと積もっている。
「雪、降ってる!ずっと降らないかなって考えてたんだ」
楽弥は喜びの舞を踊り、先程の大人しさが嘘のように
浮かれて飛び跳ねて白い地面に小さな足跡を残していく。

夕食を終えた頃には驚くほど積雪していた。
夫と楽弥はこらえきれなくなって外へと駆け出した。
「おとこのこチームがつくるんだよね、ゆきだるま」
初めての大雪に腰が引けている希舟が言った。
父と兄のことを男の子チームと呼んでいる。
「さむいからさ、おんなのこチームはまってようね」
自分と私のことを女の子チームと呼んでいる。
たいがい女の子チームは楽な方を選ぶ。

家の門から消えていった男の子チームはしばらくして
大きな雪の玉を転がして庭に戻ってきた。
「パパ、がっくんにぃに、ばんがって」と希舟が声援を送る。
真っ白い息を吐くふたりは充実した表情で制作に励んでいる。
「きっきぃ、目と鼻、探してきて!」と夫に頼まれた希舟は
必死になって野菜かごを漁っている。
目にはジャガイモを鼻にはニンジンを頭にはバケツを乗せて
楽弥よりも大きな雪だるまが完成した。

快晴の翌朝、楽弥は布団の中でもぞもぞしている。
冬になってから、毎日のように読んでいた絵本
レイモンド・ブリッグズの『ゆきだるま』のように
夜のうちに遠くへ飛んでいってないかな?とか
朝がきて溶けていなくなってないかな?とか想像して
布団から出られなくなってしまったらしい。
「昨日の場所でちゃんと待ってるよ」と伝えると
慌てて階段を下りて窓にかじりついた。
安堵の表情と輝いた瞳で雪だるまを見つめる。
子供って素敵だなと思う。雪の日は特に。

照りつける太陽でジャガイモとニンジンが落ちてしまった。
保育園から帰ってきて、気を落とさないか心配だが
雪だるまの目と鼻が大好物のシチューになれば
少しは気を取り直してくれるかもしれない。

text by : yuki

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七五三



五歳になる息子と三歳になる娘の七五三を終えた。
十一月に入り、ようやく七五三を意識し始めたものの
写真館での貸衣装にも記念撮影にもどこか抵抗を感じていた。
分からないことばかりだけど、やるなら自分らしくやろうと思い
家族全員の着物を揃えるために蚤の市や骨董屋をいくつもまわった。
ひとつ、またひとつと揃う度に七五三が特別な意味を持ち始めてくる。
その一日に幕が閉じると、心にぽっかり穴が空いたように喪失感が残り
素晴らしく幸せな行事なのだということにあらためて気付かされた。

早朝、楽弥が大好きな美容師の友人が妻の髪を結いに来てくれた。
着付けまでゆっくり二階で寝かせておこうと思っていたのに
こんな日に限って楽弥は早々に目を覚まして降りてきた。
そして彼女と娘の愛莉ちゃんの存在に気付くなり
「えっ!なんで!これって夢?」と目を輝かせた。
いつも寝起きが悪く、保育園に遅れてばかりいるのに
好きな人の声が聞こえると、彼の眠気は吹き飛んでしまうらしい。

いつも早起きなのに、大事な日に寝坊する希舟を起こして呉服店へと急ぐ。
小松ご夫妻とは知り合ったばかりなのに、七五三について相談をすると
お休みの日にも関わらず、家族全員の着付けを喜んで引き受けてくれた。
骨董屋で集めた古い着物を立派な呉服店で広げるのは少し気が引けたが
「これは掘り出し物よ!」と微笑んで、無知な私たちを安心させてくれる。

「なかなか理想の学ランが見つからなくて...」
写真家の渋谷さんが申し訳なさそうに現れた。
七五三の撮影をお願いしてから幾度も連絡を取り合っていたのだが
数日前に渋谷さんが送ってきてくれたラフ画にはこう記されていた。
・貝戸くん...学ラン(つぎはぎ)+マント+ゲタ+ぼうし(特攻隊)
・玄関表札...かまぼこ板などでも可
主役でもない父親が何故つぎはぎの学ランを着るのか...かまぼこ板...
渋谷さんの妄想は私の想像以上に膨らんでいた。

古道具屋の岩井さんも駆けつけてくれた。
「袴か刀か持ってませんよね?」と訊いた時には
「袴も刀もないな〜ごめんよ〜」と言っていたのに
普段連絡をしない古物商の仲間にまで訊いて探してくれて
袴や刀に加え戦前の雪駄や下駄や外套までもを手にしていた。
それを当然のように用意してくれる岩井さんはやはり徒者ではない。

私は最後に記念撮影をする時に着てもらえたらと思い
岩井さんには黒い紋付き羽織りを
渋谷さんには赤い花柄の着物を用意しておいたのだが
撮影が始まるよりも前にふたりはそれを羽織っている。
私たちはひとつの劇団と化して、舞台となる香取神宮へと出向いた。

昼、境内にある古いお茶屋でラーメンをすする。
岩井さんは子供たちが頼んだラムネの中のビー玉の語源について語り
渋谷さんの手の中にあった瓶ビールの王冠は湯呑み茶碗にポチャンと沈んだ。
参道の団子屋で甘酒をまわし飲みしたり、九官鳥と間の悪いお喋りをしたり
何でもないようなことが楽しくて、撮られている感覚もないまま時が過ぎた。

夕方、アトリエで撮影をしながら私は幸せを感じていた。
この洋館に出会っていなければ佐原に越してくることもなかったし
考えてみたら、美容師の友人も小松ご夫妻も岩井さんも渋谷さんも
みんなこの地に越してきてから仲良くなった人たちだ。
そんな友人たちと七五三を祝えたことが嬉しかった。

夜、みんなで酒を呑んでいると電話が鳴った。
「ちょっと家の前に出てきてもらえませんか?」
呉服店の小松さんからだった。
忘れ物でもしたのかなと考えていたら
お祝いのケーキをわざわざ届けにきてくれたのだった。
思わぬプレゼントに驚きと嬉しさで胸がいっぱいになった。
子供たちも大喜びして、一緒になってケーキを切り分けたのだが
相当疲れていたのだろう、ケーキを食べずしてふたりとも眠ってしまった。
幸せそうな寝顔を見ながら、ここまで元気に育ってくれたことに感謝した。

深夜、男たちの話は何故か人間の善と悪にまで及んでいた。
岩井さんは紋付き羽織りを、渋谷さんは花柄の着物を羽織っていたせいか
岩井さんは武士のように、渋谷さんは花魁のようになっていた。
武士が花魁の精神に厳しくも優しく語りかけているようだった。
きっと着物には人格までもを変えてしまう魔力があるのだろう。
机の上には渋谷さんが何かに取り憑かれたように彫ったという
貝戸のかまぼこ板が残されていた。



photo by : kentaro shibuya

text by : tetsuya

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