黒い空

「誰が空に黒い絵の具をかけてるんだろうね?」
沈んでゆく夕陽を眺めて、息子はそう呟く。
そんな時、なんて幸せなんだろうと感じる。

私はいつも彼に教えてもらっている。
彼は私よりもずっと楽しい生き方を知っている。
彼は私よりもずっと正直に真っすぐ生きている。

蕎麦猪口におしっこをしたり
服を着たままお風呂に入ったり
生クリームを顔中に塗りたくったり
大好きなアイスをひとつ残らず買ってきたり...
叱ることを忘れ、つい笑ってしまうことばかりする。

蕎麦猪口におしっこをしたのは衝撃だったが
衝動を抑えるくらいなら思いのままにやれば良いと思う。
服の繊維が浮いた湯船に浸かりたくはないが
どんな気分なのか味わうのも良いと思う。
誕生ケーキに浮かれて生クリームだらけになれば良いし
真冬にアイスを食べて震えるのも良いと思う。
人生を楽しんでいる...それで良いと思う。

息子は嬉しい時に飛び跳ねる。
笑いながら何度も何度も飛び跳ねる。
息子は悲しい時に地面を踏みつける。
泣きじゃくり何度も何度も地面を踏みつける。
大人にはない表現が子供にはあり
子供にはない表現が大人にはある。
大人はたいてい恥ずかしがり屋なのか
飛び跳ねたり、地面を踏みつけたりしない。
それか的確な言葉を覚えていくにつれ
そういった表現を忘れてしまうのかもしれない。

「おとなしくしなさい」とは「大人しくしなさい」と書く。
無邪気な子供に大人のようにしなさいとはあまり言いたくない。
逆に大人に「子供らしくしなさい」と言ったらどうだろう。
きっと純粋な表現を取り戻すことなんてできない。
だから子供の一瞬一瞬の感情が愛おしいのだ。
子供といるとそんなことを考える。

最近、息子の塗り絵が真っ黒になった。
保育園から持ち帰った塗り絵を束にして
「パパにプレゼント」と言って渡してくれるが
どの塗り絵も黒い絵の具で塗りつぶされている。
これまで黒なんてほとんど使ったことがなかったのに...。
もしかしたら心の闇が表れているのかもしれないと心配したが
「これもこれも...ぜんぶ黒けものだよ」と嬉しそうにしている。
誕生祝いに渡した『黒けもの』の本を大切にしている息子は
黒けもので誰もが喜んでくれると勘違いしているようだ。

「冬はすぐに黒になっちゃうよね」
日が短くなり遊び足りない様子の息子は続ける。
「でもさ...星がいっぱい見えてさ...綺麗だよね」
空が黒くならなければ星は輝かない。
私はまた彼にひとつ教えてもらった。

text by : tetsuya

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黒けもの

黒けものは東京での務めを終えて
ぞろぞろと川越へと連れ立った。
刺繍詩集『黒けもの』を携えて。

黒けもの展を開催したことで作品について問われるようになった。
それぞれの問いの答えを探しているうちに、黒けものの物語を
何となくだけど少しずつ理解し始めたような気がする。
自分で作っておきながら変な話だけれど...
想像はただ頭の中にしまっておくのではなく
言葉にして伝えることが大切だということに気付いた。

黒けものの物語は、馬に跨がった男が落馬して死んでから始まる。
死後の世界に光が射すことはなく辺りは暗くて何も見えない。
男は何かの気配を感じる度に「君は誰か」と問いかける。
しかし皆一様に「私は黒けもの」と答える。
名前なんて誰かが勝手に決めたもの。
ここではそんなものは必要ない。
光が射さなければ色もない。
黒けものに問いかける男も黒けものなのだ。

物語は刺繍展をやることが決まってから急に思い浮かんだ。
馬に跨がる男も、馬から落ちる男も、馬に去られた男も
本を作ることなんてまったく考えずに刺繍したのに
まるで物語にそって拵えたかのようにしっくりきた。
本のために作り足した訳でも選んだ訳でもない。
作りためてきたすべての刺繍で物語は生まれた。

いつだったかコシラエルのちかちゃんが
「刺繍展を私のアトリエでやるのはどうかな」
と誘ってくれたのは何かの導きだったように感じる。
「気の向くままに刺繍してほしい」とその時に手渡された
彼女の真っ白な服が、黒けもの展のための最後の作品となった。
ジャケットには馬を食べた狐を、スカートには子馬と子狐を刺した。
頼まれた通り、気の向くままに刺繍して生まれた馬と狐の親子が
死後の世界から光の射す世界へと飛び出していく話に繋がった。

『黒けもの』の本が仕上がったのは着手してからひと月後のこと。
東京の展示には間に合わなかったが、思いのほか予約をいただき
これから多くのお客さんのもとに本を届けられるのが嬉しい。
もうひとつ嬉しかったのは、保育園で『黒けもの』の本を
娘のいる1才児の部屋で先生が読み聞かせしてくれたことだ。
小さな子供たちが輪になって、黒けものをじっと見つめているのは
異様な光景だったが、子供にこそ読んでもらいたかったので感動した。
まだ字が読めなくても目で見て感じるものがきっとあると信じている。

もともとは息子の4才の誕生日プレゼントにしようと作り始めた本で
漢字を使わないにしようか...もっと解りやすい言葉にしようか...とか
色々悩んだが、大人にも何かを感じてもらえたらと思い推敲を重ねた。
詩のことを考え過ぎて、自分も黒けものになったような気分だった。
息子はアトリエに来る度に「黒けもののお話はご本になった?」
とずっと楽しみにしていたので、誕生日を待たずして渡した。
こんな色のない本を喜んでくれるかなと心配だったが
彼はもう詩を暗記するほどに読み込んでいる。

黒けものは川越での務めを終えると福岡へと旅立つ。
長旅の後にはどんな出会いが待っているだろう。

text by : tetsuya

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津留さん

「手伝いましょうか?」
欲しかったこの一言は彼の口からすぐにこぼれた。

刺繍の巡回展を開催することが決まり、浮かれていた夜に
考えてもいなかったチラシのイメージが一気に頭の中に広がった。
パソコンに長く向き合うことのできない私は
まずクロッキー帳に筆で絵を描くことから始める。
墨で塗られた黒けものの体に修正液で文字を書き込み
コピー機を駆使して切り貼りし、イメージを形にしていく。
ふと、専門学校に通っていた15年も前のことを思い出した。
ドシエと呼ばれるイメージブックを作るために夜中のコンビニに通い
コピー機で拡大と縮小を繰り返し、狭い部屋で切り貼りしていた日々。
眠い頭で操作すると、欲しかった素材が切れてしまって落ち込むが
もう小銭もなく、これも悪くないなと自分で自分をごまかしていた。
時を経ても、あの頃のやり方と何ひとつ変わっていない。

デザインはすぐに決まったが、ここで手が止まってしまった。
入稿するにはパソコンと向き合わなければならない。
それに頭を抱えていた時に電話が鳴った。
「刺繍展のチラシはどうするんですか?」と津留さんに訊かれ
「イメージは出来てるんですが...」と言葉を詰まらせる私に
「手伝いましょうか?」という救いの一言がこぼれた。
「えっ!本当に?」と大袈裟に驚いてみせたものの
どこかで彼のこの一言を待っていた気がする。

私は黒けものの絵を描き足す度に津留さんに送った。
成功も失敗もない。描いたものすべてを送り続けた。
大量の黒けものの中から、どういう基準かは分からないが
琴線にふれた黒けものを厳選し、彼がレイアウトしくれた。
この最初の原稿が素晴らしかった。
コーヒーカップを帽子さながらに被ったカメの甲羅に
のんきなウサギがそっぽを向いて座っている...
彼の遊び心に心底感動していた。

そこから連日連夜のやりとりが始まった。
チラシの画像がメールで届く度に、電話で微妙なニュアンスを伝えた。
「ウサギが楽しそうに見えるように1ミリ上に」とか
「カメの甲羅にある小さな塗り落としを潰して」とか
細かい修正にも津留さんは嫌な顔ひとつせず...
電話の向こうだから嫌な顔をしていたかもしれないが
「99回までの修正は許します」と笑ってくれる。
そんな彼のおかげで理想のチラシが仕上がった。

そして今は黒けものの本を一緒に作っている。
刺繍の詩集は30ページほどになる予定だが
きっと津留さんは2999回の修正に応えてくれ
これまで見たことのないような面白い本になると信じている。
「手伝いましょうか?」の一言が大掛かりなことになってしまい
今頃、後悔しているだろうか...
いや、電話口での彼は意外と楽しそうにしている。
もしかしたら黒けものに取り憑かれているのかもしれない。

津留慎太郎。33才。11月生まれの蠍座。
胡散臭い丸眼鏡で東欧の古物を愛でる店主。

写真はチラシに落選した黒けものを可哀想に思い
津留さんが心を込めて制作した没黒けもの集合体。

text by : tetsuya

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黒けもも

目を覚ますとベッドの上の布団は膨らんでいるが、そこに人の気配はない。
今日も夫は仄暗いうちに、こっそりアトリエへと出掛けて行ったようだ。
子供たちが起きだして、膨らんだ布団に「パーパー!」と飛びつくが
布団はぺしゃんと潰れる。これがいつもの朝の風景。

保育園が始まる時間になると、がらりと縁側の窓が開き
慌ただしく子供たちを車に乗せて、保育園へと送ってくれる。
そのままアトリエに戻ると、食事をものの数分で済ませるだけで
日がな一日、ルーマニアの黒く太い糸を操っている。

これまで夫が刺してきたイーラーショシュ刺繍の伝統図案は
いつからか自分の世界へと広がっていき、ここ数年の間に
黒い糸で施された動物が1匹、2匹、3匹...と増え続け
気が付けば壁一面に動物が佇んでいる。
花を持ち立ち尽くす朴訥な熊やまんまるに太った怪しく微笑む猫
馬に跨がる紳士や落馬した楽士に帽子の男のシルエット。
家族ひとりひとりの肖像まで刺繍にした。

アトリエに並んだ手提げ鞄に仕立てられた黒い動物は
皆こちらをじっと見据えていて、でもどこか違うことを考えているようで
何か不思議な物語が生まれそうな予感をはらんでいる。

かねがね刺繍展をやりたいという秘めた思いはあったようだけれど
友人の一声によって、堰を切ったように物事が決まっていった。
一夜のうちに電話一本で巡回展の約束を諸処に取り付けて
最終日にはアトリエでアコーディオンの音楽会をやることが決まった。
東京から九州まで友人が刺繍展を快く引き受けてくれたことが嬉しい。

刺繍展の表題を考えていたある日のこと
ぼんやり動物を眺めていると”獣”という一文字が浮かんできたらしい。
たしかに動物も人間も黒い糸で刺されると、なぜか獣らしさをまとう。
その日から彼らは「黒けもの」と呼ばれるようになった。

連日、夫は真夜中まで黒けものを刺し続けている。
これほどまで刺繍に夢中になる父親がいるだろうか。
息子は夕食を頬張りながら、先に席を立ちアトリエへと向かう夫に
「パパ!今日も黒けももがんばってね!」と声を掛けている。
そして娘も負けじと「もけもも...ねっ!」と応援している。

text by : yuki

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半田さん

骨董市で昭和初期の壊れた扇風機を譲ってもらった。
油と埃にまみれた黒い鉄の塊をアトリエに持ち帰るよりも先に
半田さんのテラスに持ち込む。
「半田さんこれ直せますか?」
テラスの奥のにやけた顔に金歯が光る。

「何か直すものはないか?」
半田さんはいつもそう言ってやって来る。
暇と器用な手を持て余しているのだ。
「どこか俺と似ているところがあるのかもな」
何か修理を頼むと半田さんはいつもそう言って帰っていく。
きっと古いものを捨てずに直しながら使い続けているからだろう。
廃材でこしらえた半田さんのテラスには
割れた鏡で作ったシャンデリアや鳥かごに組み込まれたラジオや
謎のオブジェが所狭しとぶら下がっている。

スピード違反で捕まり肩を落としている私のところに
「あそこの橋で60キロオーバーで捕まっちまったんだ」と
半田さんはさらに肩を落としてやって来る。
「あそこを120キロで走ってたんですか?」と訊くと
「そうだ」と深く頷く。
「そうだ」が半田さんの口癖だ。
半田さんは免許証を取り上げられて怒っていた。
「やつら何を言っても聞かねぇんだ」と警察に憤っていた。
確かにどこか自分に似ているところがあるのかもしれない。

半田さんは一度アトリエに来るとなかなか帰らない。
とっくに話は終わっているというのになぜか帰らない。
「何か直すものはないか?」と言いながらアトリエを見回し
民芸品を眺めたり本棚の絵本を引っ張り出して読み始めたり
挙げ句の果てには真っ黒な手で作品を触り始める。
「たいしたもんだ」と言いながら触り続けるので
仕方なく壊れかけの古い木のハンガーを渡した。

翌日、目を疑うほどに艶艶のハンガーを片手に
半田さんは金歯を光らせてやってきた。
私は半田さんが帰ってすぐにその塗料をヤスリで削り落とした。
返って時間を費やしてしまったことに後悔しながら削り続けた。
それから半田さんがアトリエで何かを手にする度に
またあの塗料を塗られてしまうんじゃないかと気が気じゃないが
どんな修理でも気兼ねなく頼めるのは半田さんしかいない。

数日後、半田さんのテラスで壊れていた扇風機が回っていた。
磨かれた真鍮の羽から心地良い風が流れている。
その風を半田さんは顔面で受けながら笑っている。
半田さんが遅くまで配線を直してくれていたのを私は知っている。
けれど半田さんは大変さを微塵も感じさせることなく
扇風機に向かって「そうだ」と子供のように笑っている。
絶対にお礼を受け取らずに半田さんは決まってこう言う。
「半田さんが直してくれたと憶えててくれたらそれでいいんだ」

しかし、ようやくアトリエにやってきた直ったはずの扇風機は
電源を入れても回らなくなっていた。
半田さんは扇風機が直ったことがたまらなく嬉しくて
テラスで回し過ぎモーターがいかれてしまったらしい。
「これで羽を弾けばエンジンがかかるから大丈夫だ」
と網の間から木の棒で羽を弾いた。
モーターが軌道に乗って回転し始めると
「そうだ」と半田さんは金歯を光らせた。

半田さんが来るとまったく仕事にならないのだが
たまに顔を見るとなぜか嬉しくなる。
「しゃべり過ぎて悪かったな」
何も直すものがないと半田さんはいつもそう言って去っていく。
煙草に火を点けて歩く後ろ姿は哀愁が漂っている。
どこかで見たことのある後ろ姿だと思っていたら
五年前に他界した祖父にそっくりなのである。
だから私ともどこか似ているのかもしれない。

半田高生。78才。12月生まれの射手座。
アトリエの向かいで暮らす元バスの運転手。

text by : tetsuya

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