拝啓JPWiMAX

ルーマニアから帰国してアトリエにインターネットを繋ぐために、これまで利用していた会社に回線工事を頼んだが、四月は混んでいてふた月ほど時間が掛かるという。さすがにそれでは遅過ぎると思い、ルーターを即日発送してくれるJPWiMAXという会社に申し込む。これなら持ち運びができて家でも仕事ができる。

それがいくら経っても届かないのだ。しびれを切らして連絡をすると「四月中の発送は難しいです。五月の連休明けになります」とのことで待っていたのだが、届かない。再び連絡をすると「五月中の発送は難しいです。六月になります」とのことで気長に待っていたのだが、一向に届かない。

毎日メールの返信のためにWiFiの繋がるカフェに通うことになった。あまりにもコーヒーが苦いからカフェラテを注文する。いや、もう注文しなくても「カフェラテですよね。お好きなんですね」と店員が顔を憶えてくれている。同じ時間に同じ席に座り、同じタイミングでブラインドを下ろすと「今日も下げてもらいありがとうございます」と同じ言葉を掛けられる。おまけに試食を勧められ、その感想を求められる。

帽子にツナギに下駄。こんなに通うつもりじゃなかったので、人目も気にせずにずっと同じ格好だったのだが「今日も素敵なお帽子ですね」なんて店員に言われると帰りたくなる。それでも今日で最後だろうと言い聞かせて下駄を鳴らして通い続けた。

誰のせいでもないがカフェラテが嫌いになった。言うなればカフェも嫌いになった。パソコンもインターネットも嫌いになった。もしかしたらこれはJPWiMAXから私へのメッセージなのかもしれない。「インターネットに使う時間があるなら刺繍に使いなさい」人間が生きていくうえでパソコンなんて必要ない。人間には限られた時間しかないのだから作品を残したい。ありがとうJPWiMAX。さようならJPWiMAX。

敬具

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リョウジのリョウリ

「その膝どうしたの?」と妻が訊く。「渋谷さんの力が足りなくて落っこちた」と膝から流血した楽弥が苦々しく答える。

真夜中に散歩に出掛けた楽弥の小さな手は友人ふたりの大きな手と繋がっていた。私は彼らの一歩後ろを歩いている。友人の力を借りて「いちっにのっさんっ」で飛び跳ねると同時に片方の手が離れる。地面に向かって楽弥の体が斜めに落ちていく。相当痛かったのだろう、悶絶している楽弥を「おいっ大丈夫か?」と潤ちゃんが気遣う。

「渋谷さん心配したでしょう」と妻が続ける。「全然」と楽弥が答える。「えっ。渋谷さん何してたの?」「星見てた」「嘘でしょ」「本当にこうやって星見てた」と楽弥は腰に手を当て夜空を見上げる仕草をした。確かにひとり夜空を見上げていたような気がする。

散歩から戻ると、料理をしない岩井さんが何故か料理について語っている。「俺が料理したら道具も食材も全部こだわっちゃうから駄目。でも味覚だけは天才かもしれない。いや本当に。小学校の時の授業で料理したら上手すぎて。それからみんなにリョウリって呼ばれてたの」楽弥を落とした渋谷さんが名誉挽回とばかりに口を開く「リョウジだけにね」。潤ちゃんが「そういうことか」と妙に納得している。

そこからリョウリことリョウジの肉汁の出ないハンバーグ論が始まる。「肉汁が旨いんじゃないの?」と口を挟む潤ちゃんに「違うの潤ちゃん。本当のハンバーグは旨みを閉じ込めるの」と返すリョウリ。そもそもハンバーグをどう作るかという話ではなく、どう作ってもらうかという話をしている時点で違うような気もする。そこにパン屋を営む謂わばプロの克ちゃんが「パテが好きってこと?」と至極真っ当な質問をするも誰ひとり聞いていない。渋谷さんはそんなことよりも「リョウジのリョウリね」と随分とその語呂が気に入った様子だ。ハンバーグの夢でも見ているのか、私の足下で眠ってしまった希舟は口をパクパクさせている。

ハンバーグ論は未明まで続いた。「俺は色んな大人に育ててもらったから楽弥にも色んなことを教えてやりたいの」と岩井さんは常々語っている。きっと今宵もハンバーグだけでなく、人間の本質を教わったはずだ。大人とはこんなにも馬鹿で楽しいものだと。

私は腰に手を当て夜空を見上げる。そして先程までハンバーグ論を繰り広げていた男が幼い頃のトラウマから肉が食えないことを思い出していた。

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忘れた目玉

電話が鳴る。「こっちは最高の季節だよ。遊びに来ない?」「今から行くよ」雨降りの金曜日、何気ない会話だが距離がある。ここから長野まで300キロ。車で4時間はかかる。すぐに保育園と小学校に子供たちを迎えに行き、そのまま長野へと向かう。

暗闇のなか明かりが灯っている一軒の家。白猫のおもち、黒犬のあんこ、あんこに目玉を食べられたBOOと友人家族が迎えてくれた。そのBOOの目玉を直すという名目で遊びに来たのに、肝心の目玉を忘れて来てしまった。無性に彼らに会いたくなり、着の身着のまま慌てて出発したのだ。他の日でもよかったのかもしれないが、生まれたばかりの赤ちゃんの寝顔を見て、今このタイミングで来て良かったと思った。

ちかちゃんと初めて会った時、いろははまだ自転車の補助席に乗っていた。それから傘屋を始めて、ひとりふたりと家族が増えて、住まいも移り変わり、いろはは中学生になった。ひとつだけ変わらないのはいつ会っても魅力的な家族だということ。

鶏の鳴き声で目を覚ます。昨夜は暗闇で何も見えなかったが、見渡す限り緑の木々が揺れている。雨音だと思っていたのは、庭を流れる川の音。湿った植物の匂いがする。あまりの清々しさに茫然としてしまう。「空気が美味しいね」と妻が言うと、楽弥は口を開けてぱくっと食べて「ほんとだ。美味しい」と目を丸くした。おもちを追い掛ける希舟とあんこの散歩に出掛ける楽弥。ふたりで木のブランコに座り自然を満喫している。

産まれたばかりの鶏の卵で目玉焼きを作り、ビワの葉でお茶を淹れ、庭で摘んだフキやヨモギを天ぷらにして食べる。なんて豊かな時間なのだろう。山の麓や湖の畔を散歩して、ご飯を食べて、お風呂に入り、眠る。日が暮れて、夜が明けて。それが何よりも幸せに感じられる。温泉に誘われても、蕎麦屋に誘われても出掛けたくなかった。この家にいるだけで満足していた。

雨上がりの帰り道、ちかちゃんが「貝戸家もここに住んだらいいのに」と言っていたのを思い出す。離れていても心の近い友人の言葉はそれもなかなか面白いかもしれないと思わせてくれる。ゆうくんが持たせてくれた卵が助手席で揺れる度に心も揺らぐ。夕空にうっすらと浮かんでいた白い満月はいつの間にか金色に輝いていた。

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希舟の災難

去年の暮れはルーマニア北部のマラムレシュ地方にいた。初めてここを訪れたのはかれこれ十年以上前になる。黒い帽子を被り、刺繍の施された革のベストを羽織った男性と花柄のスカーフを頭に巻き、縞模様のエプロンを掛けた女性の姿に感動したのを今でもはっきりと憶えている。村人が集う教会の前を走り去る干し草を積んだ馬車や羊の群れを日がな一日飽きずに眺めていた。

そんな風景も時の流れと共に段々と少なくなってしまった。魅力的な古民家が何の変哲もない大きな家に変わっていく。マラムレシュ地方は古い木造教会が世界遺産に登録されているので観光資源が入る。そのお金で家を建て替える人が多いが、美しい木彫りの家が次々と壊されてしまうのは残念で仕方がない。

これまで幾度となく訪れているブシュタとアヌッツァの家に行く。夫婦は民宿を営んでいて、十年前は自宅の一室を貸しているだけだったのに、今では敷地に三棟も宿が並んでいる。宿代も以前より随分と高くなっていて、料理上手なアヌッツァの食事を思わず断ってしまった。アヌッツァは何かを察したように「食事代はいらないから食べていきなさい」と優しい言葉を掛けてくれた。温かいスープが雪道を歩いて凍えた身体をほぐしてくれる。

翌日もアヌッツァが朝食を用意してくれた。お腹を満たして次の村へ向かおうとすると「民族衣装を着てみたら」と言う。希舟も楽弥も妻も人形のようにマラムレシュ地方の民族衣装を着せられていく。最後に私に用意してくれたのは百年前の革のベスト。革の装飾と細部まで施された刺繍が美しい。かつては代々受け継がれる民族衣装を村中の人が身に纏っていたのに、今ではほとんど目にしなくなった。貴重なベストを持ち帰るべきか葛藤していると、楽弥は飽きて雪の降る庭へと飛び出し、希舟が追いかけた。

バタンと大きな音がして、アヌッツァの叫び声と希舟の泣き声が響いた。何が起きたのかと思って駆け寄ると、希舟の顔が血で真っ赤に染まっている。どうしたらいいのか分からずに抱きしめる。希舟も何が起きたのか分からない様子だ。目も当てらないほど血だらけになった顔を恐る恐る見ると、おでこがパックリと割れている。

この村には病院がなく、町まで行くにもヒッチハイクしか手段がない。それに町の病院が年末に開いているとも限らない。アヌッツァが慌ててガーゼを持ってくるが、生地が劣化して粉々になっている。それでもすぐに止血しなければと思い、綿屑の舞うガーゼで傷口を押さえる。

外に飛び出した希舟は楽弥を見失い、寒くて家の中に戻ってきたらしい。その時に雪で足を滑らせ扉の敷居におでこを打ったようだ。ブシュタが自分で作った家だから角材が剥き出しになっている。その鋭い敷居の角で切ってしまったらしい。ブシュタは申し訳なさそうにビニール袋いっぱいの林檎を持ってきた。

このままでは危ないと思い、ヒッチハイクをして近くの村の友人の家に向かう。七年ぶりに会うイオアンは初めて会う私たちの子供を見て喜ぶと同時に目を覆った。奥さんのマリアが急いで消毒をしてくれる。手当ての間に愛犬のマンゴーが嬉しさ余って飛び跳ねて楽弥と希舟を舐め回す。マンゴーは子供たちよりも大きいが幼くて甘えん坊だ。

そのままイオアンの家に泊まらせてもらい、一緒に年越しをした。ルーマニア人は魚をほとんど食べないが、奮発してバケツいっぱいのマスを揚げてくれた。さらに伝統料理のミティティやサルマーレや手作りのケーキにツイカ、山ほどのご馳走を囲んで幸せな気持ちで新年を迎えた。希舟もマンゴーと追いかっこをするほど元気になっていた。

シク村に戻り、いつも通りの生活をしていた三日後のこと。急に希舟の顔が腫れた。目も開かないほどに腫れ上がり涙を流している。二時間かけて町に行き、友人のラーレーシュとキンガに病院のことを尋ねる。夫婦には娘のグレタがいるので、子供の病院をよく知っている。親切なふたりは仕事を休み、わざわざ私たちのところまで駆けつけてくれて、いくつもの病院を一緒に回ってくれた。小児科、外科、眼科。丸一日かけて検査をした。傷口からばい菌が入り膿んだうえに結膜炎も発症してしまったらしい。それからしばらくは町の病院に通い続けた。

「マリアが消毒してくれたのにね」と希舟に言うと「マンゴーも舐めてくれたしね」と答えた。「えっ。マンゴーが舐めたの?」と訊くと「そうだよ。マンゴーが治してくれたんだよ」と自慢気だ。希舟はおでこの傷が治ったのが嬉しかったらしく、前髪を上げておでこを見せる癖がついた。そしてピンク色の傷跡を「きっきぃのしるし」と呼んで喜んでいる。

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楽弥の災難

五月の連休は川越の友人の家に泊まっていた。友人が営む店でPretzel蚤の市を開催して、普段会うことのできないお客さんと旅の話や古物の話をしながら充実した時間を過ごした。子供たちも菓子屋横丁に駄菓子や玩具を買いに出掛けたり、遊園地に連れて行ってもらったりと楽しんでいた。一週間も家族のように食事を囲み、同じ屋根の下で眠っていたから、蚤の市が終わった時は淋しさで胸がいっぱいになった。こんな気ままな私たちを迎え入れてくれた友人の懐の深さに感謝した。

蚤の市を終えた翌朝、搬出のために古物を包み直して車に積み始めた。ようやく片付いたのは日が傾いた頃。20箱あったダンボール箱は半分ほどになったが、それでも車は満杯でかろうじて運転席だけが空いていた。車内を覗いた楽弥が「座るところないじゃん」と笑っている。確かにこれでは帰れないと思い、子供たちの席をどうにか作っている時に、楽弥の聞いたことのない声が響いた。何と言ったらいいのだろう、言葉にならないような呻き声。

慌てて車の外に出ると、楽弥ではなく希舟が凄い勢いで飛び跳ねて泣き出した。希舟の視線の先で楽弥はうずくまって頭を押さえている。その小さな手の中から血が溢れ、地面に滴れていく。希舟が泣きながら何か説明している。どうやら希舟が投げた石が後ろを向いていた楽弥の頭に直撃したらしい。咄嗟に楽弥を抱えた私の服に血が染み込んでいく。通りすがりの人が驚いて集まってくる。「救急車呼びましょうか?」楽弥は恐くなったようで「痛くない」と強がり「きっきぃだって血だらけになったけど救急車に乗らなかったじゃん」と続ける。それはルーマニアでの話だ。どうしても救急車に乗りたくないのだろう。抵抗する楽弥をなだめながら電話をかける。

遠くから聞こえるサイレンの音が大きくなるにつれて希舟が余計に泣き叫ぶ。自分がやってしまったことの重大さを感じているのだろう。「がっくん、死なないで」とぴょんぴょんと飛び跳ねながら涙を飛ばしている。救急隊が楽弥に問いかける。「どれくらいの石が当たったの?」後頭部から血が出ているのにそんなこと分かるはずがない。しかし楽弥は地面に転がっていた小さな石を拾い「これくらいの石」と答える。大ごとにしたくないのだろう。「この石じゃこんなに血は出ないよ」救急隊が首を傾げる。泣いている希舟に訊くと大きな瓦礫を指差した。

楽弥と付き添いの妻が救急車に乗り込む。私と希舟は車で病院へ行こうと思ったが、希舟は楽弥と離れたくないと泣き叫んでいる。仕方なく希舟を救急車に乗せると、今度は私と会えなくなることを心配して「パパ、どこに行くの」と泣きじゃくる。そして救急車の扉が閉まる瞬間に「パパ、先にご飯食べないでね」と捨て台詞を残した。一気に緊迫感がなくなった。連休中に子供たちと遊べなかったから今日は美味しいものを食べに行こうと約束していたのだ。それがよっぽど楽しみだったのだろう。食事が中止になることを楽弥の頭と同じくらいに心配している。

楽弥の頭は出血量のわりにあっさりと治療が終わった。あれほど怖がっていたくせに、英雄にでもなったかのように救急車の様子を語っている。希舟はそんな話に一切耳を傾けることなく「今日はごちそうだよね」と笑って飛び跳ねた。

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