彼とノワゼット

「ノワゼットひとつ」彼が白髭のマスターに注文する。「あのマスター本物やな。俺が今ノワゼット注文したの見てたやろ?それなメニューにのってないねん。でもあのマスター黙って頷いとったで。フランスで修行してたんとちゃうかな。やるなこの店」彼は興奮している。「やばい。目が合うてもうた。向こうも俺の方見て本物やって目しとったで。コーヒーなんてあかん。ここはノワゼットいっとかな」彼は調子に乗っている。「すんません。さっきのコーヒーやめてノワゼットもうひとつ」私の注文を勝手に変えている。マスターはまた黙って頷く。「本物に会うたの久しぶりやわ。日本にもこんな店があるんやな。ほんま幸せやわ」彼の饒舌は止まらない。

「今は偽物が売れる時代やからな。俺がパリにいた時代とはちゃうねん」彼はノワゼットを一口飲んで語り始める。また遠い昔の記憶を掘り起こして過去の栄光に浸っているのだろう。「偽物?」私は聞き返す。「そうや。俺には分かるねん。今売れてる人も偽者ばかりや」「偽者?」「そうや。気をつけなあかんで。偽者が蔓延る時代やからな」思わず痩せ細った彼に言葉を返す。「偽者でも食えないよりいいよ」「なんや。偽者になりたいんか?」真っ直ぐな黒い瞳で彼は私に問いかける。

「せやな。まずは自分を捨てるところから始めるんや。そして真似するんや。売れてる物や売れてる人を見たら迷わず盗むんや。それが嫌いでも迷わず盗むんや。そしたら世の中はすぐについてくる。あの人の作品みたいとか。あの人の世界観みたいとか」「真似してるって気づかれちゃってもいいの?」「ええねん。世の中みんな真似やからな。誰も責めたりせえへん。ほらよくあるやろ。ええなと思った作品が後になってからこれにそっくりやんてこと。あれは騙された方が悪いんや。騙されたってのもちゃうな。どっちが本物でどっちが偽物かなんて誰にも分からんからな」思わず浮浪者のような格好をした彼に問いかける。「なぜそれを知っていてずっと売れないの?」彼はノワゼットを一気に流し込み席を立った。そして私のジャケットを羽織り、前髪を掻き上げて私の帽子を被り、振り返り様に口を開いた。「本物の偽物やからや」格好よくも何ともなかった。仕方なく向かいの椅子に残された破れた彼の作業着を羽織り、伝票を確認する。

今日も私が勘定するのか。ジャケットも帽子もまた持っていかれた。ふたり分の代金をテーブルに置いて、外に出ると下水溝からドブネズミが顔を出した。じっとこっちを見ている。彼そっくりの真っ直ぐな黒い瞳をしたドブネズミ。光は求めない。ずっと暗いところで暮らしている。私はドブネズミに問いかける。「本物の偽物とは何ですか?」

煙草に火をつけたマスターが裏口から出て来る。「ごちそうさまでした。ノワゼット美味しかったです」私はふたり分の礼をする。「あれが本当に美味しかったのですか?知らない物を注文されるから困りましたよ。でも連れの方じっとこっちを見てたでしょ。知らないならその足りない頭で考えろみたいな目をされて。怖くてコーヒーも淹れられず冷蔵庫にあったコーヒー牛乳を温めただけの偽物なんです」店主は私に問いかける。「ノワゼットとは何ですか?」

彼は今ドブネズミのように暮らしている。光は求めない。ずっと暗いところで暮らしている。アトリエにはジョルジュ・ブラックのキュビスムに影響を受けた作品が並んでいる。いや、影響を受けたという言葉を遥かに超えている。正真正銘の贋作である。それ以上でもなければそれ以下でもない。本物か偽物か見分けがつかないほど忠実に模倣されている。眠りにつく前に満月に照らされた作品に問いかける。「これ本物やんな?」

「二〇二〇年八月三日午前九時六分。贋作と捏造の容疑で逮捕する」夢から目を覚ました彼は数人の男に取り囲まれていた。自分の置かれた状況を飲み込めないまま震える口を必死に動かす。「これは偽物ちゃうねん。本物の偽物やねん」そう抵抗するも呆気なく彼は取り押さえられた。そして夢うつつ手首に嵌められた銀色の冷たい輪っかに問いかける。「これ本物やんな?」

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