王道か冒険か

何度こんな朝を迎えただろう。映画でいったら六本分。小説だったら二冊くらいは読めただろう。昨晩の七時から今朝の七時まで男六人家で酒を呑んでいた。もちろん妻と子供たちはもう眠っている。というより、そろそろ起きる時間だ。私たちが過ごした時間で二日分の睡眠がとれたともいえるだろう。時間をこうして例えたくなるのは、長いこと話していたはずなのにあまりに内容がないからだ。何というか、為になる話がひとつもないのだ。大の大人が六人集まってだ。さすがにそれはないだろうと振り返ってみるのだが、やはり何もない。不思議なくらい何もない。

思い出せるのは「朝は納豆しか食べない」とか「いなり寿司に具はいらない」とか「俺はわかめラーメンしか頼まない」とかそんな話ばかり。王道を極めるという男の主張に誰も異論を唱えなければ話は移り変わるのだろうが、そこに本気で食らいつく男がいるのだ。「朝は食う時間ねえだろ」とか「いなり寿司は何でもうまいだろ」とか「ラーメンは全部のせだろ」とか。互いの主張は平行線のまま一向に終わる気配がない。決着しないままさらに新たな意見が飛び交う。「ガリガリ君は冒険しなくていい」と発言するものなら「あいつら色んな味を開発して俺たちを楽しませてくれてるんだぜ。非常に偉いと思うよ」「全然偉くない。あいつら赤字だから」「赤字でもあいつら面白ければいいんだよ。俺はどんな味でも冒険するぜ」と討論が始まる。「あいつら」とはいったい誰を指しているのだろう。開発者だろうか、まさかガリガリ君本人だろうか。彼らならガリガリ君が実在すると思っていてもおかしくない。

くだらない。くだらな過ぎる。いつもそう思うが、何度もこんな夜を繰り返してきた。映画六本観ても、小説二冊読んでもすぐに忘れてしまうが、こんなくだらない夜のことは何故かよく憶えている。どんなに酔っていても彼らの発言は頭の奥底に残っている。それもどういう訳か、くだらないことから順に記憶している。

くだらない中にも哲学がある。王道を極めるも、冒険するもどちらの気持ちも分かる。洋服も音楽も映画も小説もただひとつのものを好きなのと、幾度も遠回りをして自分の好きなものをひとつ見つけるのとでは訳が違う。無駄な経験を重ねてこそ、ひとつのものにこだわる信念が生まれる。まさにこういう夜の討論こそ無駄なのだが、生きている上で無駄なことはひとつもないという信念を私は持っている。

そんな男たちと迎える夜明けは、眩しい光が心地よく空気までも美味しく感じられる。騒々しい夜から一転して朝の静寂。何か成し遂げたようなこの感覚は何だろう。もう誰も酔っていない。それどころか皆いつもより男前に見える。これが信念を持った男の顔なのだろうか。いや、そんなはずはない。私は酔っているのだろうか。二階へ上がり横になると同時に子供たちが目を覚まして、またくだらない一日が始まろうとしている。

photo by : kentaro shibuya

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