ぼくたちのオリンピック

黒けだもの展が終わった。そして今、私は抜け殻のようになっている。まだまだ力不足だが、今の自分にできる精一杯の表現ができたと思っている。”黒けだもの”という物語にすべてを注ぎ込んだつもりだ。

前回の展示から二年の歳月をかけて制作に打ち込み、作品が揃ったのは展示の十日前。それを津留くんがたった数日で撮影し構成して本に仕上げてくれた。それも私が思い描いていた通りに。いや、それ以上に。

彼がルーマニアで買い付けてきた花模様のフックに私の刺繍のバッグが掛かっている。木彫りのクローゼットを開けるとそこにも刺繍のバッグが掛かっている。使い込まれたテーブルには刷り上がったばかりの黒けだものの本が並んでいる。トランシルヴァニア地方にある村の民家で目にしていた美しい家具と自分の作品が調和する。「この景色が見たかったんです」彼は顔に似合わぬ格好いい言葉を吐いた。私も口にはしなかったが同じ気持ちだった。私が刺繍を始めたきっかけはこの景色と共にある。それを津留くんがルーマニアから遠く離れたこの場所で実現してくれたのだ。感動しないはずがない。

朝は典美さんとコーヒーを飲み、夜は津留くんとビールを飲んだ。十日間も一緒にいてずっと楽しく過ごせるギャラリーなんてきっと他にはない。一日中くだらない話に付き合ってくれた典美さんも、毎日未明に起こされた津留くんも疲れたに違いない。けれどこんなに素晴らしいギャラリーで展示できるのだから、寝る間も惜しんで楽しまないともったいない。

ゆっくり眠ることなく十日が過ぎていった。それでも毎日が充実していた。しかし街に活気はなく、不安な報道も耳に入ってきた。予定通り東京オリンピックが開催できるかどうか話している時に津留くんが突然口を開いた。「それよりもこの展示がぼくたちのオリンピックなので」彼は至って真面目な顔をしている。「二年に一度のオリンピックなので」低い声で彼はもう一度繰り返す。

去年の今頃はルーマニアを放浪していて、展示が終わったら家族でまたどこかへ旅することを勝手に思い描いていた。それがすぐには叶わないような状況にみんなで打ち上げをする気にもなれず、ひとりあてもなく夜道を歩いた。物語三部作の最終章を終えて、ここから先どこへ進むかを想像していた。行き先を決めていない旅のように。

ギャラリーに戻ると猫のキンタが庭でじっとしていた。二階では典美さんとチコちゃんと津留くんが食卓を囲んでいた。何だか私は自分の家に帰ってきたような不思議な気分のまま席に着いた。「もう浮かれたり落ち込んだり忙しいわね」ドキンちゃんが放った一言は私がルーマニア人に感じるそれと一緒だった。



photo by : yoshimi doki

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