山羊の月

「あっ。猫の爪」夜空を見上げてまだ幼い妹が呟く。「あれは三日月って言うんだよ。そうだよね?」妹とさほど年の変わらない兄が父親に訊く。「違うよ。あれは山羊の角だよ」男は答える。「また嘘ばかり教えないでよ」隣にそう笑ってくれる妻がいたが、もういない。何ひとつ本当のことを言わない夫に愛想を尽かし「嘘つき」と言い残して家を出ていった。

それからも男は子供たちに様々なことを教えた。周りの大人たちはまた嘘をついてと冷たい視線を注いだが、男にとってそれは本当のことだった。自分の目で見たものを信じただけで、何ひとつ嘘なんてついた憶えはなかった。いくつもの丘を歩いて旅をしたから地球は丸くないと教えたし、その土地によって空の色が違うから太陽はひとつではないと教えた。そして不思議な夜の話をした。「なんか嘘みたいな話だね」夢中になって聞いていたふたりもやがて大きくなり「嘘つき」と言い残して家を出ていった。

あれはいつだったか。どこだったか。男は曖昧な記憶を辿る。丘を歩いていると一頭の山羊が男の後をついてきた。そこでは羊は衣服や食料になるために重宝されていたが、山羊は神を食べる悪魔として邪険にされていた。丘を越えて男が暮らす小屋に帰るまでついて離れなかった山羊は腹を空かせていたのか地面に散らばった黒い紙をひとつ残らず食べてしまった。それは文字で埋め尽くされた男の日記だった。紙が山羊の喉を通ると同時に頭の中の記憶が消えていく。地球が丸いことも太陽がひとつしかないことも。

真っ暗な小屋に窓から金色の光が差し込む。はっと我に返ると目の前には山羊がいて、その頭にはふたつの三日月が煌めいていた。

「あっ。山羊の角」「ほんとだ。山羊の月」遠く月夜の丘からふたりの声がする。

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