ふたりの少年



「この辺りにいるはずだよ。酸っぱい匂いがするでしょ」その言葉に楽弥が鼻をくんくんさせる。「ほんとだ。酸っぱい匂いがする」ヘッドライトで照らした木を一本一本確かめながらふたりは進んでいく。「がっくーん」「ひーくーん」後ろから希舟の呼ぶ声がする。

懐中電灯で希舟の顔を照らすと頬に四匹の蚊が止まっている。反射的に右頬を叩いてしまった。辺りは真っ暗。ずっと怖かったのだろう。緊張の糸が切れたように大声で泣き出した。「ママー」と泣き叫ぶがママはいない。手を繋ごうとすると希舟の左手にはカナブンが握られていた。

数日前に手の平に乗せたカブトムシの写真が届いた。虫を獲りに行こうと前川さんに誘われたのだ。昆虫が大好きな楽弥は大喜びして、希舟もそれにつられて「きっきぃも行く」となった。きっと庭でバッタを捕まえるくらいの軽い気持ちだったのだろう。それが蓋を開けてみたら街灯もない暗い森ときた。四才の女の子が泣くのも無理はない。

匂いを頼りに樹液が出ている木を見つけた。「ほら。いた。ここはカブトムシにとっては格好の場所なんだよ。ちょうど身を隠せるようになっているでしょ」と嬉しそうに話す昆虫博士と逃すまいと夢中で捕まえる楽弥。鼻を利かせて歩いているうちに虫かごは賑やかになっていった。

暗闇の中でランタンを灯して夕食を摂る。食事を前にして急に元気になった希舟の小さな手が大きなおにぎりに伸びる。「希舟ちゃんのおにぎりは何が入ってるかな?」と前川さんが訊く。もぐもぐしながら「お肉」と希舟が答える。肉は入っていないだろうと思って口にすると本当に肉だ。前川さんが焼き鳥やつくねを入れて握ってきてくれたのだ。さすが大人の姿をした子供である。子供心をよく分かっている。希舟は左手におにぎり、右手にぶどうを持って幸せそうに頬張っている。「ひーくんのお肉おにぎり美味しい」と弁当箱はあっという間に空っぽになった。食べ終えるなり楽弥は捕まえたばかりのノコギリクワガタを見て「こうなってるのが格好いいよね」と頭の上に両手で弧を描いている。それに負けじと昆虫博士も「こうだもんね」と頭の上により大きな弧を描く。ふたりの少年の目が輝いている。

虫なら何でも喜ぶと思った私は見つけた虫を楽弥の虫かごに入れた。すると楽弥がその虫を必死に逃がそうしている。「どうした?」と訊くと「この虫は臭いからいらない」と答える。前川さんが「よく知ってるね。その虫は臭いんだよ」と続く。私が捕まえた臭い虫が虫かごから落ちた途端に楽弥が踏み潰そうとした。その瞬間に「殺すことはないだろう」と前川さんの声が森に響く。恥ずかしくなったのか楽弥は笑ってごまかしている。小さな虫でも懸命に生きていることを痛感した。どんな虫を見つけても昆虫博士がその虫の特徴を教えてくれる。まるでこの世の生きものすべてに意味があるというように。図鑑を見ているだけでは感じられないことがある。「もっと探そうよ」と虫かごがいっぱいになっても楽弥の興奮は冷めやらない。最後にミヤマカミキリを見つけて虫捕りは終わった。

家に帰ると千恵さんと愛犬のニハルが待っていた。何よりも先に楽弥は昆虫博士にもらったおがくずと腐葉土を虫かごに入れている。それを希舟とニハルが仲良く階段に腰掛けて見守っている。前川さんの像刻を前に私の頭は混乱する。さっきまで楽しそうに虫捕りをして、暗闇の中でおにぎりを食べていた大きな少年。その手から生まれた美しい像刻が静かに私を見つめている。まったくの別世界のようにも感じるが、やはり前川さんの純粋さが作品に投影されている。千恵さんが虫かごを見て「すごいね。初めて来た時はバッタもなかなか捕まえられなかったのに」と褒めてくれる。確かに楽弥は前川家で随分と成長させてもらっている。そして次は標本を作ろうと約束をして別れた。

帰り道に私は森に落ちていたフクロウの羽根を帽子に挿した。楽弥は飽きずに虫かごを覗いている。疲れて眠ってしまった希舟の右頬には四つの赤い勲章が残っていた。



photo by : chie maekawa

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