希舟の災難

去年の暮れはルーマニア北部のマラムレシュ地方にいた。初めてここを訪れたのはかれこれ十年以上前になる。黒い帽子を被り、刺繍の施された革のベストを羽織った男性と花柄のスカーフを頭に巻き、縞模様のエプロンを掛けた女性の姿に感動したのを今でもはっきりと憶えている。村人が集う教会の前を走り去る干し草を積んだ馬車や羊の群れを日がな一日飽きずに眺めていた。

そんな風景も時の流れと共に段々と少なくなってしまった。魅力的な古民家が何の変哲もない大きな家に変わっていく。マラムレシュ地方は古い木造教会が世界遺産に登録されているので観光資源が入る。そのお金で家を建て替える人が多いが、美しい木彫りの家が次々と壊されてしまうのは残念で仕方がない。

これまで幾度となく訪れているブシュタとアヌッツァの家に行く。夫婦は民宿を営んでいて、十年前は自宅の一室を貸しているだけだったのに、今では敷地に三棟も宿が並んでいる。宿代も以前より随分と高くなっていて、料理上手なアヌッツァの食事を思わず断ってしまった。アヌッツァは何かを察したように「食事代はいらないから食べていきなさい」と優しい言葉を掛けてくれた。温かいスープが雪道を歩いて凍えた身体をほぐしてくれる。

翌日もアヌッツァが朝食を用意してくれた。お腹を満たして次の村へ向かおうとすると「民族衣装を着てみたら」と言う。希舟も楽弥も妻も人形のようにマラムレシュ地方の民族衣装を着せられていく。最後に私に用意してくれたのは百年前の革のベスト。革の装飾と細部まで施された刺繍が美しい。かつては代々受け継がれる民族衣装を村中の人が身に纏っていたのに、今ではほとんど目にしなくなった。貴重なベストを持ち帰るべきか葛藤していると、楽弥は飽きて雪の降る庭へと飛び出し、希舟が追いかけた。

バタンと大きな音がして、アヌッツァの叫び声と希舟の泣き声が響いた。何が起きたのかと思って駆け寄ると、希舟の顔が血で真っ赤に染まっている。どうしたらいいのか分からずに抱きしめる。希舟も何が起きたのか分からない様子だ。目も当てらないほど血だらけになった顔を恐る恐る見ると、おでこがパックリと割れている。

この村には病院がなく、町まで行くにもヒッチハイクしか手段がない。それに町の病院が年末に開いているとも限らない。アヌッツァが慌ててガーゼを持ってくるが、生地が劣化して粉々になっている。それでもすぐに止血しなければと思い、綿屑の舞うガーゼで傷口を押さえる。

外に飛び出した希舟は楽弥を見失い、寒くて家の中に戻ってきたらしい。その時に雪で足を滑らせ扉の敷居におでこを打ったようだ。ブシュタが自分で作った家だから角材が剥き出しになっている。その鋭い敷居の角で切ってしまったらしい。ブシュタは申し訳なさそうにビニール袋いっぱいの林檎を持ってきた。

このままでは危ないと思い、ヒッチハイクをして近くの村の友人の家に向かう。七年ぶりに会うイオアンは初めて会う私たちの子供を見て喜ぶと同時に目を覆った。奥さんのマリアが急いで消毒をしてくれる。手当ての間に愛犬のマンゴーが嬉しさ余って飛び跳ねて楽弥と希舟を舐め回す。マンゴーは子供たちよりも大きいが幼くて甘えん坊だ。

そのままイオアンの家に泊まらせてもらい、一緒に年越しをした。ルーマニア人は魚をほとんど食べないが、奮発してバケツいっぱいのマスを揚げてくれた。さらに伝統料理のミティティやサルマーレや手作りのケーキにツイカ、山ほどのご馳走を囲んで幸せな気持ちで新年を迎えた。希舟もマンゴーと追いかっこをするほど元気になっていた。

シク村に戻り、いつも通りの生活をしていた三日後のこと。急に希舟の顔が腫れた。目も開かないほどに腫れ上がり涙を流している。二時間かけて町に行き、友人のラーレーシュとキンガに病院のことを尋ねる。夫婦には娘のグレタがいるので、子供の病院をよく知っている。親切なふたりは仕事を休み、わざわざ私たちのところまで駆けつけてくれて、いくつもの病院を一緒に回ってくれた。小児科、外科、眼科。丸一日かけて検査をした。傷口からばい菌が入り膿んだうえに結膜炎も発症してしまったらしい。それからしばらくは町の病院に通い続けた。

「マリアが消毒してくれたのにね」と希舟に言うと「マンゴーも舐めてくれたしね」と答えた。「えっ。マンゴーが舐めたの?」と訊くと「そうだよ。マンゴーが治してくれたんだよ」と自慢気だ。希舟はおでこの傷が治ったのが嬉しかったらしく、前髪を上げておでこを見せる癖がついた。そしてピンク色の傷跡を「きっきぃのしるし」と呼んで喜んでいる。

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