魔女の館



保育園の給食が始まる前に急いで息子を迎えに行く。
いつも一番最後のお迎えで、早退なんて滅多にしないので
楽弥は英雄にでもなったかのように友達に手を振り
助手席へと乗り込むと重たい昆虫図鑑を開いた。
ページを捲るなり黒い瞳が忙しなく動き始める。
「ひーくんって虫の博士なんだよね?」私が答えるよりも先に
「虫のこと何でも知ってるから博士だよ」と自問自答している。
これからその虫博士に会いに行くことに心躍らせているようだ。
私もまた魔女の館を訪れることに心躍らせていた。

抽象画のような外壁が視界に入った瞬間から私は感動していた。
車が到着すると、煙草をくわえた前川さんが出迎えてくれたが
楽弥は車中で昆虫図鑑を抱えたまま眠ってしまい
今度は私の黒い瞳が忙しなく動き始める。
家はもちろん、廃材で作ったという小屋にまで釘付けになった。
二階から下りてきた千恵さんが昼食を勧めてくれたが
一服しないことには震えた心が落ち着かない。
犬の二ハルも尻尾を振って迎えてくれた。

中庭で煙草を吸いながら、日本でこんな暮らしができるんだと
家の中にお邪魔する前から、そんなことを考えていた。
どこか外国で見たような景色なのに、どこにも当てはまらない。
アトリエも離れも小屋も庭もどこを切り取っても絵になる。
さらに椅子も机もほとんどの家具を自ら拵えたというから驚く。
ここはどこでもない。前川さんと千恵さんとニハルの国だ。
楽弥は起き抜けに木々の生い茂る庭でバッタを追いかけている。

千恵さんが振る舞ってくれた美味しい手料理を
あっという間に平らげて、お芋の皮をニハルにあげてから
「昆虫を見に行こう」と言う前川さんに続いて離れに向かった。
そこには虫や骨や角や貝や流木や水晶が整然と並べられていた。
その中に象の大きな臼歯の上に、木で作られた街があったりと
前川さんの像刻が混ざり合っていて目を引く。

虫の標本を見せてくれている前川さんの目も
それを見せてもらっている楽弥の目も輝いている。
いや、言うならば目の前の空間すべてが輝いて見える。
色も形も自然にあるものの美しさに改めて気付かされ
自分が見過ごしているだけで身近に感動があるのだと知る。
こうして自然の中にあるものに喜びを感じて生きてるからこそ
唯一無二の像刻を生み出し続けられるのだろう。

「次は石を見に行こう」と誘われて場所を変える。
床一面に透き通った石や木目がある石と様々な石が広げられる。
ひとつ手にとるごとに前川さんが石について教えてくれる。
「好きな石を選んでいいよ」と言われて楽弥は目の色を変えた。
瑪瑙を太陽に当てて照らしてみる。なんて綺麗なのだろう。
まるで子供になったような気分。なんて幸せな時間なのだろう。

次から次へと出てくる石に夢中になっていた。
「それは駄目だよ。人を怖がるようになっちゃうからさ」
前川さんの声のする方を向くと、楽弥が窓辺にあった長い棒で
寝そべっていた二ハルを突ついてしまったようだ。
悪いことをしたと分かったのか、慌てて私の足下に飛んできた。
前川さんは子供にもちゃんと正しいことを伝える。
ただ優しく接するだけではなく、叱る時には叱る。
きっとそれは楽弥を子供ではなくて、ひとりの人間として見て
向き合ってくれているからできることで、親として嬉しく思う。
普段ならすねてしまうのに、ニハルの濡れた鼻を撫でて素直に
「ごめんね」と謝れたのは、ひーくんの言葉を理解した証拠だ。

帰り際にまた庭で楽弥はバッタを捕まえている。
着いた時は一匹捕まえるのもやっとだったのに
いまや片手で三匹も手にして、さらに捕まえようとしている。
たった一日で随分と息子が成長したような気がした。
オーバーオールの小さな胸ポケットを石で膨らませ
帰り道もまた昆虫図鑑を抱えたまま眠ってしまった。
その足下で虫かごのバッタが音を立てて跳ねていた。



photo by : chie maekawa

text by : tetsuya

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