ある男の記録その四



ふと、彼が淹れてくれた珈琲を思い出していた。
今まで飲んだどんな珈琲よりも美味しかったし
きっとこれから先もあの味を超える珈琲には
出会うことはないような気がしている。
何年前だろう...彼が数ヶ月だけ営んだ喫茶店は
魔法がかけられたかのような異空間だった。
セメントが塗りたぐられた洞窟みたいな店には
古物と共に彼の作品が散りばめられていた。
注ぎ口が細く改造された琺瑯のポットと
手縫いの深いネルで淹れてくれた珈琲。
薄暗いカウンターで過ごした夜は忘れられない。

しかし、彼はもう珈琲すら淹れなくなった。
手動のミルや電動のミルやあの時目にしたネルも
道具は山ほど持って来たのに一度も淹れなかった。
もしかしたら淹れないのではなく
もう淹れられないのかもしれない。

そう感じたのは一緒に焼き肉を食べに行った時だ。
彼は肉を頼むことも、焼くことも、取ることも
ビールを注ぐことさえせずにただ食べ続けた。
そして皿やビールグラスが空くその度に
黙って私の目の前に掲げてくるのだった。
「がっくん...ビール頼んでもらえますか?」
と楽弥に注文させて、注がれるのを待っている。
彼は珈琲だけでなく何もできなくなってしまった。

何とも言えない情けない気持ちのまま家に帰ると
また冷蔵庫から珈琲が溢れ出ている。
紙パックの珈琲の口を開けたまま
寝かせて入れてしまったのだろう。
それは何年も前から彼が家に来る度に見る光景だ。
昔はこんなことでも笑えたが、もう笑えなかった。
もしかしたら、変わってしまったのは
彼ではなく、私の方なのかもしれない。
以前なら今日の焼き肉も楽しめたのかもしれない。
床にある茶色い水たまりを眺めながら
自問自答していた。

text by : tetsuya

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