ある男の記録その二



「哲弥...タイミング逃しとるで」
十年ほど前、目下に海が見えたその瞬間に
缶ビールを開けると同時に彼はそう言った。
何故かずっとその言葉を憶えていて
今しかないその瞬間を意識するようになった。
明石海峡を眺めながらビールを飲んだり
芦屋の迎賓館のテラスで葉巻を吸ったり...
今この場所で何をしたら最高かを彼は知っていた。

到着した夜は楽しそうに夢を語った。
「とある銀河郵便夫の一日の出来事」
この短編映画を撮るために会いに来たと言う。
監督は妻の由希、主演は私、撮影は彼がやるらしい。
映画の話も急だし、そもそもどれだけ滞在するかも
聞いていないが、そこが彼の魅力なのは間違いない。
八十年前のチェコのモーターサイクルスーツや
五十年前の英国ラレーの自転車が家に運ばれて
冗談じゃないことを証明した。
「遊びやないで。本気やからな」
と言い残して明け方に眠った。

それが翌日から彼は酒に溺れた。
「哲弥...タイミング逃しとるで」
と言った昔の面影は微塵も感じられなかった。
朝からウォッカを呷る姿を可哀想に思ったし
もう素面では制作意欲が湧かないことを知った。
映画の撮影はしたが、彼は酔っぱらってフラフラ
手にしたカメラもブレブレでどうしようもなかった。
ただ撮影中の彼は幸せそうにずっと笑い転げていた。
家に帰ってから撮ったばかりの映像を確認するも
彼は撮影中のことを何ひとつ憶えていなかった。

text by : tetsuya

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