芸術家の少年

連休前に思い立って、あの男に連絡をした。
これまで電話を取ったためしがないのに
やけにあっさりと繋がった。
「明日から遊びに行ってもいい?」
「ええけど寝るとこ作るからゆっくり来てな」
相変わらずだったが、生きていたことにまず安心した。

最後に会ったのは東京に住んでいた頃、もう七年も前になる。
ちょうどルーマニアへ旅立つ前の慌ただしい時期にやって来て
毎日、パンとビールと公園を求めて自転車で走り回ることになった。
朝起きると姿はなく、大きな紙パックのコーヒー牛乳を飲みながら
帰ってくるものだから、冷蔵庫はコーヒー牛乳で埋め尽くされた。
それも一口飲んだものを横に積み重ねていくから溢れ出ている。
彼と一緒にいると信じられないことが度々起こる。

保育園帰りの子供たちに急遽決まった連休の予定を伝える。
「今夜からみんなで遠くに行くことになったんだよ」
「行きたい。行きたい。どこに行くの?」
「芸術家に会いに行くんだよ」

不思議そうな顔をしたままの子供たちを乗せて出発する。
いつもなら寝ている時間なのにふたりは眠ろうとしない。
「なんか真夜中の冒険みたい」
息子が窓に張り付いて夜景を見ながらそう呟いていたが
目的地も分からないまま布団に寝て暗闇を走るということは
子供にとっては夢と現実の間を旅しているような感覚なのかもしれない。

寄り道をしながら丸一日かけて姫路に辿り着いた。
「寝るとこ作るからくれぐれもゆっくり来てな」
と道中に念押しされていたので、まさかとは思ったが
通されたアトリエにはその言葉通り、寝るとこが作ってあった。
「ぎりぎりやったで。さっき整ったところや」
木材を調達してベッドを作っただけではない。
シーツも布団も枕もすべて彼の手で作り上げられていた。
「このリネンはイタリアの七十年前のデッドストックやねん。
 素材にはこだわらなあかんからな。一番ええのを使うんや」
いつも会った瞬間だけは随分と格好良いことを言うのだ。
「この部屋には入らへんから好きなだけ泊まっていき」
兄貴風を吹かせて彼は颯爽と階段を下りて行く。

広いアトリエにある照明は作りかけのランプふたつだけ。
薄明かりのなか見渡すと、イーゼルに掛けられたいくつもの絵画に
無造作に置かれた画集に写真集、夜空に向けられた天体望遠鏡があり
以前と変わっていない彼の世界観がひときわ輝いて見えた。

朝は庭でゆっくりコーヒーを飲み、昼は公園でサンドウィッチを食べて
夜は家で映画を観て酒を呑む。子供たちも映画に釘付けになっている。
こうした日常が心地良いのは全てが彼の手によるものだからだろう。
コーヒーやサンドウィッチや映画や酒にこだわりがあるように
表札も照明も家具も台所も風呂もこだわりぬいて作ってある。

アトリエには立ち入らないと兄貴風を吹かせていたはずの彼は
誰もいない隙に入っているようだった。荷物が増えているのだ。
額装された版画や童謡集や積み木が旅行鞄に次々と詰められていく。
旅行鞄がいっぱいになると、深緑色をした継ぎ接ぎの鞄が隣で口を開き
そこに古着や指輪や貴重なレコードが次々と詰め込まれていく。
こっそり荷物に細工をしている彼にばったり会ったりすると
「ばれてもうた」と恥ずかしそうに階段を下りて行くのだ。
「何度も言うてるけどここ禁煙やからな」と言葉を添えて。

ことあるごとに子どもたちにもプレゼントを持ってくる。
古い木箱の中に詰められたアクセサリーや小説の一説だったりと
決して子供向けとは言えないものを。彼には子供と大人の境がないのだ。
子供にも本物を持たせようとしている。自分の宝物を譲ろうとしている。
木箱からボヘミアングラスを取り出して子供たちに一生懸命に説明する。
「これはすごい技術なんやぞ。プラハという町が遠くの国にあってな。
 プラハ城というお城があるねん。おっちゃんはその町が好きやねん。
 そこで作ってるんや。すごいやろ。チェコはビールもうまいんやぞ」
こんな話が延々と続いて、子供たちが飽きて騒ぎ始めると
「それでええんや。大人になったらみんな丸くなってまうからな。
 子供は尖っててええんや。丸くなるなよ。尖っててええんやぞ」
丸くなっていない大人がそんな言葉を本気で投げかける。
少年のように純粋な瞳で自分に語りかけているかのように。

なぜか帰る日の晩になって
「寿司屋に行くで」と彼はやけに張り切り
「時間稼ぎや」と寿司屋を四件はしごすることになった。
「すし!すし!すし!またすしかよ!」と子供たちは笑い転げる。
白いシャツに黒いハットを被り、彼は幸せそうに寿司を頬張る。
その姿は、遥々海を越えてやって来たユダヤ人を連想させた。
「なんか寿司に感動しているユダヤ人に見えてきた」と伝えると
「俺な嘆きの壁に行っとるからな。一応巡礼済みやで」と返ってきた。

そういえば、旅の醍醐味を教えてくれたのも彼だ。
「二週間野宿したとしても一日は五つ星に泊まらなあかん」
その言葉は私の教訓になっている。
旅だけではなく、生き方そのものに影響している。
「自分を粗末にしたらあかんねん」
酒に呑まれながら彼はそんな言葉を吐き出すのだ。

アトリエに気になる絵本があったので
「これもらってもいい?」と声を掛けると
「欲しいものは黙って持っていき。もう全部頭に入っとるからな」
と気取っていたが、私がくまのプーさんの話をした時には
「それ一度も読んだことないねん」と笑っていた。
イギリスで暮らし、アトリエにコブタのぬいぐるみもあったのに
彼の頭の中には何も入っていない。彼のメッキは実に剥がれやすいのだ。

別れ際にお手製のポンポン付きの毛布とドミニカ産の葉巻を手渡された。
「ぽっかりしてもうたからすぐ遊びに行くかもしれへん」
彼はそんなことを呟いた。確か七年前もそうだった。
姫路に遊びに行ったすぐ後に東京に飛んで来たのだ。
「心に穴が空いてもうた」とその穴を埋めるために。
冷蔵庫にコーヒー牛乳が並ぶ日はそう遠くない気がする。

text by : tetsuya

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