目を覚ますとベッドの上の布団は膨らんでいるが、そこに人の気配はない。
今日も夫は仄暗いうちに、こっそりアトリエへと出掛けて行ったようだ。
子供たちが起きだして、膨らんだ布団に「パーパー!」と飛びつくが
布団はぺしゃんと潰れる。これがいつもの朝の風景。
保育園が始まる時間になると、がらりと縁側の窓が開き
慌ただしく子供たちを車に乗せて、保育園へと送ってくれる。
そのままアトリエに戻ると、食事をものの数分で済ませるだけで
日がな一日、ルーマニアの黒く太い糸を操っている。
これまで夫が刺してきたイーラーショシュ刺繍の伝統図案は
いつからか自分の世界へと広がっていき、ここ数年の間に
黒い糸で施された動物が1匹、2匹、3匹...と増え続け
気が付けば壁一面に動物が佇んでいる。
花を持ち立ち尽くす朴訥な熊やまんまるに太った怪しく微笑む猫
馬に跨がる紳士や落馬した楽士に帽子の男のシルエット。
家族ひとりひとりの肖像まで刺繍にした。
アトリエに並んだ手提げ鞄に仕立てられた黒い動物は
皆こちらをじっと見据えていて、でもどこか違うことを考えているようで
何か不思議な物語が生まれそうな予感をはらんでいる。
かねがね刺繍展をやりたいという秘めた思いはあったようだけれど
友人の一声によって、堰を切ったように物事が決まっていった。
一夜のうちに電話一本で巡回展の約束を諸処に取り付けて
最終日にはアトリエでアコーディオンの音楽会をやることが決まった。
東京から九州まで友人が刺繍展を快く引き受けてくれたことが嬉しい。
刺繍展の表題を考えていたある日のこと
ぼんやり動物を眺めていると”獣”という一文字が浮かんできたらしい。
たしかに動物も人間も黒い糸で刺されると、なぜか獣らしさをまとう。
その日から彼らは「黒けもの」と呼ばれるようになった。
連日、夫は真夜中まで黒けものを刺し続けている。
これほどまで刺繍に夢中になる父親がいるだろうか。
息子は夕食を頬張りながら、先に席を立ちアトリエへと向かう夫に
「パパ!今日も黒けももがんばってね!」と声を掛けている。
そして娘も負けじと「もけもも...ねっ!」と応援している。
text by : yuki