2011.07.01 Friday
サラエヴォのバラ
旧市街へ向かおうと歩いていたら背後から爆発音が聞こえた。
復興の進んだサラエヴォだが、市内には地雷や爆発物がまだ残っていて
依然注意が必要な状態なので、一瞬身を縮めたが、
背後の夜空には花火が打ち上がっていた。
サラエヴォを翌早朝には発つ予定だったので、宿に泊まるか迷っていた。
この時すでに深夜0時をまわっていた。
安宿があればと思い旧市街周辺を探し歩いていると、
ある宿で従業員2人が酒を呑み交わしていた。
「今日はチトーの誕生日だから祝杯をあげているんだ。
さっきの花火を見ただろう?」と言い、
壁に貼られた大きなチトーのポスターを指差した。
ようやくそこで花火があがっていた理由が分かった。
国民が今でもチトーを尊敬し、崇拝していることが伺える。
その後も宿探しを続けたが、適当なところが見つからず、
先程のチトーのポスターが貼ってあった宿に戻ったが既に閉まっていた。
それならば、滞在時間も少ないので駅構内で待つのが得策かと思い
駅に向かったが、鍵が閉まっていて扉はぴくりとも動かない。
仕方なく駅に隣接する、とっくに営業の終わっている
カフェの椅子に座り夜が明けるのを待った。
日中あんなに暑かったのに、夜は冷たい風が容赦なく身体を冷やす。
寒さに耐えながら仮眠をとると、やがて空が白んできた。
ようやく駅の鍵が開けられると窓口へと駆け込んだ。
しかし、早朝の便は目的地へは行かないという。
仕方がないので昼の便を手配し、再び旧市街へと繰り出した。
夜の旧市街は静まり返り、チャルシャと呼ばれる古くからある職人街の
木の扉が見事に閉まっていて、それはそれで情緒があった。
この時間になると、どの店も揃って軒先に商品を並べ開店準備をしている。
チャルシャは、赤煉瓦の屋根を乗せた黒光りする古い木造の店が
碁盤の目のように何十軒と連なっている。
そのほとんどがオスマン朝文化の影響を受けた銅製品の店なのだが、
なかには喫茶店や食堂、骨董屋もあってそぞろ歩きが楽しい。
ここは400年続いたオスマン朝のオリエンタルな雰囲気が感じられる。
旧市街の中心にある職人街バシチャルシャ。
チャルシャの近くには青空市場がある。
ここは紛争時に迫撃砲が打ち込まれたところ。
軍事施設や政府関連施設が狙われるならまだ分かるけれど、
一般市民の生活の象徴である市場が打ち込まれたことに惨さを覚える。
市場の近くには赤いペンキが流し込まれた着弾痕が残っている。
これらは、紛争の悲惨さを人々に訴えるもので、
”サラエヴォのバラ”と呼ばれている。
この赤いペンキが視界に入るだけで、胸が詰まる。
市場近くだけでなく、町の至る所に”サラエヴォのバラ”がある。
悲しい過去をもつ市場は、そんなことを感じさせないほど
綺麗に整備され、活気に満ちている。
この時期はイチゴとチェリーがたくさん並ぶ。
味見を薦められて一粒口に含むと、甘酸っぱい瑞々しさが広がる。
そして、よく熟れた深紅の果物を見ていると
この市場が一瞬にしてこのような色に染められたのかと想像してしまった。
旅先では市場に行くのが楽しみのひとつになっているが、
こんなにも切ない気持ちになることはかつてなかった。
うずたかく積まれたモスタル産の真っ赤なイチゴ。
昼の列車に乗り、クロアチア、セルビアを通ってルーマニアへと帰る。
田舎町はどこも美しく牧歌的だけれど、よく見ると
砲弾の痕が生々しく残っている民家もある。
親しい隣人がある日突然”敵”になってしまうのだからいたたまれない。
かつては、異なる民族同士の結婚が普通であったため、
何代にもわたって様々な民族が混血している人も多いという。
チトーの時代にはユーゴスラヴィア人と名乗っていた人々は、
自分がどの民族に属しているのか改めて考えさせられただろう。
考える余裕もなく戦禍に巻き込まれた人も大勢いたはず。
多民族が入り交じった旧ユーゴスラヴィアを訪れると
アイデンティティーとは何かを問われている気がする。
そして、民族に境界線を引くことの難しさを考えさせられる。
text by : yuki
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