ハンカチが踊る港町コトル

アルバニアから一昼夜かけて何度も乗り継ぎをして
ようやく辿り着いたモンテネグロのコトルという港町。
バスはアドリア海の海岸線を走り、美しい海を惜しげもなく見せてくれた。
青い海は澄み切っていて、町は赤茶色の屋根を乗せた家々が連なり、
緑の木々には黄色いレモンがたわわに実っている。
車窓には思い描いていた通りのアドリア海の風景が広がっていた。

群青色に白い星模様の壁画が見えたらそこが終点。
隣国から乗り続けているバスからようやく解放される。
寂れたバスターミナルを出るとすぐに湾が出迎えてくれた。
車窓にへばりついて見ていた濃い青色の海が今度は目の前に広がる。
対岸の険しい山が海に映り込んでそこだけが深緑色に揺れていた。
まだ2月になったばかりだというのに強い日差しが照りつけて
町は開放的な雰囲気に包まれている。
バスターミナルに面した可愛い壁画の描かれた民家。

噛み合わない歯車のように複雑に入り組んだ入り江の最奥に位置するコトルは
曲がりくねった湾と険しい山々と古い町並みが織り成す美しい町。
ただの海岸地帯とも、ただの山岳地帯とも違う。
すべての要素が入り交じって雰囲気の良い町を形成している。

湾に面したコトルの旧市街は小さくて入り組んでいる。
遊園地内に造られた巨大迷路のようだ。
煤けて黒ずんだ石造りの古い建物が多く残っていて
その間を狭い路地が縫っている。
静かな旧市街はのんびりと散歩するのにちょうどいい。
赤茶色の瓦を乗せたどっしりとした石造りの家はどれも深い味わいがある。

旧市街の山側は急な斜面に家々が建っているために無数の階段がある。
趣のある民家を眺めながら何となしに階段を上っていると
知らない間にどんどん山を登ることになる。
時には民家のベランダに偶然辿り着いて家主に驚かれることも。
それでも「ここは眺めがいいだろう。ゆっくりしていきなさい」
と椅子を勧められたりする。もの静かだけれど優しい旧市街の住人。

気が付くと旧市街をも抜けて
険しい山の上にある城跡へと続く長い階段を登っていた。
頂上にある城跡の手前には15世紀に建てられた教会が残っていて、
そこから旧市街の古い町並みが見渡せて気持ち良い。
山の中腹にある教会からの眺め。入り組んだ旧市街と霧がかった対岸が美しい。

山に沿って築かれた城壁の大きな石階段は、足を踏み出すのも嫌になるほど続く。
時計を見ればもう1時間も登り続けている。額には汗がにじんできた。
港から何気なく見上げていた城跡は思ったよりも遠い。

頂上に着いたのは、日没間近だった。
湾の先に見える山脈の背景色は見事なグラデーションになっていて、
夕日が最後の力を振り絞って茜色を発しているようだった。
その空にはモンテネグロの国旗が強風に煽られてはためいていた。
コトル湾とそれを取り囲む山脈が一望できる城跡からの眺め。

翌朝、管楽器の音で目覚めた。
旧市街の真ん中にある宿の窓から顔を出すと
制服に身を包んだ楽隊が各楽器の音調整をしている。
慌てて飛び出ると祭りの前の昂った空気が流れていた。

この時期に祝祭があるのではと前々から予想はしていた。
けれど何の情報も得られないままこの町に着いた。
そして今、それが始まろうとしている。
こんなに嬉しいことはない。
祭りの衣装に身を包んだ小さな主役たち。

海洋国家だったコトルは、強陣なボカ海軍を有し
平時は商船に乗って交易をし、戦時は戦艦に乗って出陣したそうだ。
今でも一部の活動が続けられていて、その歴史は500年以上にもなる。
毎年、ボカ海軍の記念日である聖トリプンの日には祭りが催されている。

正装した人々が続々と集まり綺麗に列を作ったかと思うと
先頭に立っていた楽隊による演奏が始まり、
一団は足並みを揃えて旧市街の正門に向かって行進した。
祭りのスタート地点である正門に着いた一団は、
別の場所から同じように行進してやってきた一団と合流して、
楽隊はますます多様な音を奏で、ボカ海軍は老いも若きも
晴れ晴れしい表情をして祭りの始まりを今か今かと待っている。
房の付いたボレロにサルエルパンツ姿のボカ海軍の衣装を着た人々。

やがて男たちが手にした大きな鉄砲は空に向けられ、パン!パン!パン!
という無数の発砲音と共に火薬の匂いが立ち込めると祭りが始まった。
銃口から出る白い煙は山の頂へと流れて消えた。

一団は朝よりもさらに大きな群集となり再び正門をくぐって
今度は旧市街のなかでも一番大きな教会の前にやってきた。
楽隊が楽器を構えると聞き覚えのある行進曲が何曲か流れ、
辺りを取り囲むたくさんの群衆に笑顔をもたらした。
そして、祭りの主題曲となる印象的な楽曲が演奏された。

タッタ タラタ タッタタ〜♪ タッタ タラタ タラララ〜♪
タッタ タラタ タッタタ〜♪ タッタ タラタ タラララ〜♪

この軽快なリズムに乗ってボカ海軍の中の選ばれし人々は
足を前後に交差させてステップを踏んでいる。
そして白いハンカチの端と端を握っていつの間にか人の列を作っていた。
その列はコトル湾のようにぐにゃぐにゃと曲がり
ハンカチで結ばれたトンネルの中を人が次々とくぐっている。
音楽に合わせたステップは乱れることなく
列はいくつものトンネルをつくって器用にくぐり、踊り続けている。
目の前を三角に折られたハンカチの残像が残っていく。
ハンカチのトンネルをくぐりながら踊り続ける。
黒い衣装の間で揺れる白いハンカチが目に焼き付く。

やがて人の列は大きな輪になり、教会から出てきた司祭や
モンテネグロの国旗を持った人々をその輪の中へ通しぐるぐると回った後、
演奏がぴたりと止んだ。その瞬間に銃声が鳴り、大きな拍手と共に
ボカ海軍たちは帽子を空に放り投げて祭りは幕を閉じた。

人々が一斉に帰って行くなかで先程まで繰り返し演奏されていた音楽が
ずっと頭の中で鳴り響き、まだなんとなく体が揺れているようだった。
この祭りを見た人のほとんどがその感覚に陥っていると思う。
それほどまでに印象的なパフォーマンスと演奏だった。

祭りの余韻が頭の中を占めながらも急いでバスに乗り込み帰路についた。
数日後に戻ってきたルーマニアはまだ雪が降り積もっていて、
暖かい陽気が降り注いでいた南の地での出来事が幻のように思えた。

text by : yuki
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