ブラチスラヴァの大きな机

砂糖菓子のような町テルチを発って、
深夜にスロヴァキアの首都ブラチスラヴァに着いた。

外灯が乏しい暗闇のなか、雨に見舞われて
ずっしりと重くなった荷物を引き摺り、旧市街へ向かった。
目星をつけていた宿は満室で、さんざん探しまわった末に
巨大で無機質な建物に行き着いた。
ここが宿とは思えない外観だったけれど、
学校の寮のようで、夏休み中のみ開放しているらしい。


無愛想なおばさんに案内され、いくつもある棟の間を縫って
暗い建物内へ入っていった。
夜の病院のような冷たく恐ろしい印象を受けながら
長い廊下を歩いていると、簡素な部屋へ通された。
宿泊客は他にいないだろう。
静まり返った寮での一夜は心細かった。

翌朝もあいにくの雨。
旧市街へ向かって歩き出す。
歴史ある建物が多く、小さな旧市街には
模型のように美しい建造物が建ち並んでいた。
大粒の雨が町をしっとりとした印象に見せている。


旧市街の隣の小高い丘の上にはお城が聳えている。
ブラチスラヴァ城は、四角い建物の四隅に塔があり
”ひっくり返したテーブル”と呼ばれているらしい。
確かに巨大な机に見える。
なぜか、この机で食事をする巨人のことを想像してしまう。

丘の上からは滔々と流れるドナウ川が見渡せる。
この川を西に辿ればウィーンへ、東へ辿ればブダペストへと着く。
これから列車に乗ってブダペストへ行くことにした。


夜にブダペスト東駅に着いた。
買い付け旅の時には、幾度となくこの駅を利用していたので
懐かしさがこみあげる。

不安定な天気だったので、安宿を探そうと何駅も歩いて尋ね回ったが、
この時期は旅行者が多く、空部屋はなかなか見つからない。
へとへとになった真夜中、建物の軒下で眠っていたら
家主が怪訝な顔で出てきて追い出されてしまった。
田舎ではどこに座り込んでも、たとえ民家の敷地内に
知らずに入ってしまっていても誰一人嫌な顔をしない。
時には親切に家に招き入れてくれることもある。
しかし、大都会ではそうもいかない。


まだ夜の明けない暗闇のなか、捨て猫のように惨めな気持ちで
小雨の降る静かな町を彷徨った。
店も開いていないし、交通も動き出していない。
どこにも居場所がなく、やがてハンガリー各地を旅する気持ちが
失せてきてしまった。
こんなふうに旅を切り上げるのはとても珍しいことだけれど、
ルーマニアに早く戻りたいと思っていたのかもしれない。
きっとルーマニアの田舎が恋しかったのだろう。

早朝の列車で、慣れ親しんだクルージへと向かった。
こうしてひと月の欧州巡りが幕を閉じた。


text by : yuki
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狼の住む森の中の村ヴルコリネツ

ポーランドを後にして、長距離バスを乗り継ぎスロヴァキアのタトラ山地に着いた。
バスの車窓からは険しく切り立った山岳の岩肌が雪をまとい、
目前に迫るかのように驚くほどくっきりと見えた。
そこから列車でさらに南西へ下りリュジョンベロックという町に着いた。
ここで市バスに乗り換えてヴルコリネツという村に行こうと思ったのだが、
この日はスロヴァキアの祝日のためバスはないと言われた。

バスターミナルを何周もして近くまで行くバスを探していたら、
「私の降りるバス停で降りるといいわ」と金髪の女性が親切に教えてくれた。
英語が堪能なベロニカはブラチスラヴァでフランス語の教師をしているという。
祝日を利用して遠く離れたおばあちゃんに会いに来たらしい。

1時間遅れで到着したバスに乗り込むとベロニカは迷わず3人分の切符を買った。
「これは私からのささやかなプレゼントよ」
あまりにもさりげない優しさに一瞬戸惑ってしまう。
スロヴァキアの人々は驚くほど皆親切だ。
未明に出発する列車を待つ間にも何人かにコーヒーやお菓子の差し入れをもらった。
それも面識のない人が通りすがりに、ごく自然に「はい」と渡すのだ。
特に話をするわけでもなく、満面の笑みで去って行く。
この国の人々の優しさには幾度となく感心させられる。
バスはリュジョンベロックの郊外をひた走る。

ベロニカがここで降りると合図をしてくれた。
下車したところは、山に挟まれた何もない寂しい幹線道路。
ぽつりぽつりと道路に沿って建っている家のひとつを指して
「ここがおばあちゃんの家なの」と言った。
窓からは甥っ子や姪っ子が手を振っていたが、それに返事をしただけで、
彼女は対岸へ渡り、わざわざヴルコリネツ村への行き方を教えてくれた。

「ひとつは、険しくてきついけれど近道。
もうひとつは、緩やかだけど遠回り。どっちがいい?」と聞かれ、
日が沈みかけている空を見て「近道がいい」と答えた。
「そうね、その方がいいわ。夜には狼が出るから」と狼の鳴き声を真似た。
このヴルコリネツという村の名前の由来は狼からきているらしい。
ぎょっとしたが、急いで村に向かうほかない。
教えてもらった近道は、山の上にある村を目指して道なき道を進むものだった。
「とにかく川沿いに歩いて」と言われた通り、川だけを目印に
落ち葉が敷き詰められた急斜面の獣道をひたすら登った。
すぐに汗が噴き出し、まるで山登りに来ているかのようだった。
かろうじて人の歩いた跡がある草の倒れた道を探し進む。

1時間ほど急斜面を登り、ようやく森林を抜け出た。
ここは村の端のようだ。畑や養蜂所があった。
さらに奥へと進んでいくと家々が見えてきた。
この時の安堵感は忘れられない。
いつ迷うかも分からない、狼に襲われるかもしれない人気のない森を
登り続けたので、人の気配のする家々が見えたのが嬉しかった。
畑にいたコートを着たかかしが出迎えてくれた。

家々を一軒一軒じっくり見ているうちにあっという間に真っ暗になった。
この村で泊まれるところを探そうと思っていたが、
この時期はあいにくどこも民宿をやっていないという。
仕方がないのでまた同じ道を引き返すしかないのかと落胆していたところ
大家族の見送り風景に出くわした。
たまたま遊びにきていた家族のひとりがこれから町に戻るというので
車で送ってもらえることになった。
例の遠回りの道を下ったが、遠回りといえども車ではあっという間だった。
山のすぐ下のレストランの上階にあるホテルに宿をとった。
山の上は夜の訪れが妙に早いと感じた。

翌朝、がっかりするほど大雨が降っていて、霧も濃かった。
それでも、昨日と同じく歩いて山を登る。
山の天気は変わりやすいというが、それをまさに感じた。
雨が降ったり晴れたり曇ったり空は大忙しだ。

昨日と違うところから村へ入ると、村の入口には木の像がたくさんあった。
村の伝統衣装を身に着けた人の像がほとんどで、
老婆から少女まで面白い像が立ち並んでいた。
なかには村の紋章があり、矢の刺さった薔薇と狼と3本の木に
ヴルコリネツと彫ってあった。絵本の挿絵のような紋章だ。
この村には木彫りの技が受け継がれているようだ。

その先へ進むと、村の中央を貫く急な坂道に
整列したように同じ大きさの家々が建っていた。
色こそ違えど、その造りはどれも全く同じだ。

この村には、スロヴァキアの伝統家屋が数多く残されている。
石で土台を作った上に丸太を組み、茅葺き屋根をのせた小さな家。
そんな可愛らしい家々が、山の中腹にある村の
急な斜面に逆らうかのように踏ん張って建っている。
東洋でよく見られる入母屋造りの家。

どの家も平屋建てで、小さな窓がいくつもついている。

ひとつの家が、古い生活様式を再現していて、自由に見ることができた。
うなぎの寝床のような細長い小さな家に、寝室、台所、工房があり、
ひと家族が寄り添って暮らしていたことが伺える。
たとえ家が小さくても、賑やかな家族の談笑が聞こえるようだ。
農具や糸紡ぎのある一般的な農家の生活風景。

村を1周するのに時間はかからない。とても小さな村だ。
一昔前まではたくさんあった家屋も、今はその半分に減ってしまったらしい。
人口もかなり減少したようで、村はひっそりとしているが、
時折挨拶を交わす村人の笑顔はあたたかい。
石の台座に乗った木造の鐘楼は村中に大きな鐘の音を響かせる。

村中の家という家を見て、木造家屋の集落の中にいる心地良さに気付いた。
どこの国へ行っても木で出来た小さな家には惹き付けられるものがある。
幼い頃、外国の森の中が舞台のお話をいくつも読んだが、
もしかしたらそれが関係しているのかもしれない。
森に囲まれた木の家には何か奇妙でいて素敵なことが起こる気配がある。
何度も修理してつぎはぎになった屋根。こんな家で何か物語が生まれそうだ。

また雲行きが怪しくなったので、まだここに身をおきたいながらも下山する。
何もない山道だが、空気が澄んでいてとても気持ちがいい。
山を下りながら今回の旅を振り返る。
旅の最初に迷ったザリピエ村によって予定が大きくずれてしまった。
あちこち行きたいと思っていたスロヴァキアも今日で最後だ。

町へ行くバスが行ってしまったばかりだったので、ヒッチハイクを試みる。
すると、すぐに1台の車が止まってくれた。
車に乗り込むと同時に「君たちクレイジーだね」と笑われた。
こんな田舎ではあまりヒッチハイクをする人がいないらしい。

すぐ近くの列車が走っている町までと思っていたが、
彼の行き先と方向が同じだったので乗せてもらえることになった。
その距離といったらスロヴァキアをほぼ横断するような長距離だった。
そう、それはまるで旅の序盤の失敗を巻き返すようだった。
彼は車窓から様々な町や村を紹介してくれて、
一度は見たいと思っていたスピシュ城にも寄ってくれた。
濃霧に邪魔されて見えなかった城は、
路肩に車を一旦止めたその瞬間にぱっと霧が薄れその姿を現した。
丘の上に聳え立つスピシュ城は夕日に栄えてとても幻想的だった。
廃墟と化した中欧最大の城は、寂しくも美しかった。

こうして数時間にもわたる乗車にも嫌な顔ひとつせず、私たちを楽しませてくれ、
さらにバスの時間をわざわざ調べて、回り道をしてバス停まで送ってくれた。
そして、せめてものお礼も頑として受け取らず、
お礼を言い足りないうちに彼は去って行ってしまった。

旅には失敗がつきもので、気を落とすこともあるけれど、
こうして心優しい人々に出会うと何もかもが素晴らしく思える。
あの失敗も彼らに出会うために起こったのだと思うと何だか気が晴れる。
また近いうちにスロヴァキアへ旅立ちたいと思う気持ちが大きく膨らんだ。

text by : yuki
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