アウシュヴィッツに取り残された鞄

北国のポーランドでは、霜月に入ったというのに
夏のような強い日差しが降り注いでいた。
青空の下、古都クラクフの城壁に囲まれた小さな広場では
可愛い民族衣装を身に着けたおじさんたちが楽器を演奏していた。
アコーディオンやラッパから流れてくる音楽は
愉快でもありどこか寂しげでもある。
帽子にクジャクの羽を付け、縞模様のズボンをはいた演奏家たち。

公園を横切って、駅裏のバス停からアウシュヴィッツ行きのバスに乗った。
ポーランドへ来たのだからアウシュヴィッツへ行くべきだと夫に説得されたが、
私の気持ちは行きたいような行きたくないような中途半端なものだった。
どこか怖いものを見てしまうという意識があり、どうも気乗りしなかった。
史実に目を背けて……と思われそうだが、実際そんな気持ちだった。

強制収容所といえば、映画で観た「死の門」と呼ばれる入り口へ
真っすぐに伸びた列車の引き込み線が印象的だ。
列車だったらきっとここに連れて来られた人の心境をより身近に感じただろう。
バスでも胸騒ぎのするようなそわそわした感覚に襲われた。
とはいっても、彼らはどこに連れて来られたのかさえ分からなかったかもしれない。

バスは博物館の駐車場に止まった。
にも関わらず、どこがアウシュヴィッツなのか分からず敷地を出て探してしまった。
収容所跡などの敷地全てが野外博物館となっていることを知らなかった。
入り口を抜けるとすぐに様々な書物で見たことのあるあの鉄の門が目の前に現れた。
”働けば自由になる”という文字の掲げられた例の門だ。
3文字目のBが逆さまになっていることが、抵抗の証だといわれている。
過酷な労働に従事させられていた囚人のささやかな抵抗が見られる。

遮断機が上がったままの門をくぐると、その先には
土埃の舞う殺風景な茶色い世界が広がっていた。
そのなかに気味が悪いくらいに整列して建つ煉瓦造りの囚人棟と
申し分程度に植えられたポプラの木があった。

28棟もある囚人棟は半分ほど開放されていて、棟ごとに展示内容が違う。
その半数はナチスや囚人について、残りの半数は収容された囚人の母国が
それぞれの見せ方でアウシュヴィッツについて展示をしている。
収容されたのは、最初こそポーランドの政治犯だけであったが、
のちにユダヤ人、ジプシー、反ナチス活動家、同性愛者、障害者、聖職者、
さらに彼らを匿った者も捕らえられたそうだ。
ヨーロッパ中の国々からこの地へたくさんの人が送り込まれた。
当時の写真がたくさん展示されているが、あまりにも悲惨で直視できない。
もとはポーランドの軍兵営の建物をドイツの国防軍が接収したもの。

展示場になっている棟は室内が綺麗で広々としているが、
当時の姿をそのままに残している棟もある。
特に11号棟は他の棟とは雰囲気が違う。
細く真っすぐに伸びた廊下の両側に均等に部屋があり、蛇口が等間隔についた
細長い共同の洗面台や個室のないむきだしの便器が並ぶトイレ、
囚人服が掛けられた洗濯場や3段ベッドが隙間なく並べられた部屋などがある。
壁は剥がれ落ち、ひどく汚れているが、所々に誰かが書いた落書きが残っている。
薄暗い棟内は自然光がなければほとんど何も見えないだろう。
息苦しい室内から早く抜け出したい気持ちになる。
別の棟で見つけた落書き。皆囚人服を着ている。

もっと驚くべき光景が別の棟にあった。
ガラスケースに入れられていたのは、囚人から没収した無数の
衣類や靴、眼鏡、琺瑯製の食器や鍋、ヘアブラシに歯ブラシ。
皆大きなトランクに持てるだけの荷物を詰め込んで来たのだろう。
名前を書くように促されたその大きな革のトランクには
どれも白いインクで名前と住所が書かれていた。
きっと誰もが出所する際に戻ってくるものと信じて疑わなかっただろう。
楽しい旅をするはずのトランクが山積みになっている。
美味しい食料を入れていたであろうカゴもまた山積みになっていた。

一番ぞっとしたのは、囚人たちから切り取られた髪の毛だ。
収容される際に管理番号の札と共に撮られた証明写真は
男性も女性も不揃いな虎刈りだった。
ここに到着してすぐに髪を切り落とされたのだろう。
綺麗に編まれた三つ編みもリボンのついた状態で残っていた。
何が展示されているか分からないほどおびただしい髪の毛の束は
隣のガラスケースの中で絨毯に変わっていた。

外に出ると、その天気の良さに救われた。
この日がどんよりとした曇り空だったらきっと気が滅入ってしまう。
高圧電流が流されていたという二重に張り巡らされた有刺鉄線沿いに歩くと
見張り塔のその先にソウァ川が見えた。
そこには雑木林が広がっていて、よその郊外となんら変わりない。
高い塀と有刺鉄線の内側でこんな惨劇が起きていたなんて不思議だ。
有刺鉄線の手前には今もドクロマークの警告看板が立っている。

ナチスによる迫害については様々な議論があり、
どこまでが事実で、どこまでが戦時中に起こった情報操作なのか
いくつもの文書を読んでも史実はよく分からないが、
ここで何かしらの悲劇があったことはきっと確かだろう。
ビルケナウへ行く最終のシャトルバスに少しの差で乗り遅れ
バス停のベンチに座って今見てきたことについて二人で話していた。
夕方のアウシュヴィッツは静かで物悲しい。

一番強く感じたことは、平和の尊さよりも、もっと身近なことで、
いつも蚤の市などで気に入って手に取っている古い鞄や食器や雑貨と
何ら変わりないものが山積みになっているのを見て、とても切ない気持ちになった。
蚤の市では以前どんな人がどんな時にどんな思いで使っていたのか
その物がたどってきた歴史を思い巡らすのが楽しいけれど、
ここにあるものはどれも悲しい空気をまとっていてひとつひとつ見ているのがつらい。

名前が書かれたトランクは今も持ち主が持ち帰ってくれるのを待っているかのようだ。
悲惨な写真よりも、長い解説よりも、物には強く何かを訴えかけるものがあった。

text by : yuki
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花模様の村ザリピエ

暖かく長い秋が続いていたころ、心地良さに誘われて旅に出た。
一冊の写真集に出てきた村の風景が頭に残っていて、
ハンガリーとスロヴァキアを経由して車中2泊もしポーランドへと辿り着いた。
不穏な空気に包まれたのは大きな駅で慌ただしく乗り換えた後の車内だった。

これからザリピエ村に行くと意気揚々と隣に座っていた乗客に話すと
そんな村は知らないという。他の乗客も同じような反応だった。
駅員さえも分厚い駅名帳のようなものを引っ張り出して考え込んでくれたが、
よく分からないと首を振った。

思い当たるのは深夜スロヴァキアで列車の切符を買った時だ。
駅名を告げると切符売り場のおばさんは、予想とは全く異なる路線を提示した。
一瞬首を傾げたが、村についての情報が乏しかったので言う通りにした。
こうして、スロヴァキアを横断する長距離切符を買ってしまった。

空いていた車内で、もう目的地について尋ねる人がいなくなった時、
途方に暮れて途中下車した。
寂れた駅で言葉も通じないままに切符売り場で問い合わせると、
唯一の手懸りである写真集の切り抜きの隅に記されたZALIPIE村の
ZAに懸命に鉛筆で横線を引き、LIPIE村なら近くにあると言い張られた。

人気のない駅付近でようやく立ち話をしているおじさんをつかまえて
先程から何度も繰り返している質問をした。
やはりおじさんたちもLIPIE村についてひそひそと話していたが、
やがて交番を教えてくれた。

やっと謎が解けたのは交番だった。
大きなお腹の警官が3人がかりで小さなパソコンに向かって調べてくれた。
すると、私たちが駅名と思い込んでいたオレスノはザリピエ村の地名であって、
ザリピエ村には駅がないとのこと。村へはバスでしか行けないという。
変わりに、その地名と同名の駅がこの先にあるので発券されてしまったらしい。
この時のショックといったらない。無言のまま夫と来た道を延々と引き返した。

やっとのことでザリピエ村についたのは出発してから5日目のことだった。
太陽がゆっくり沈んでいくなか、静かな三叉路でバスを降りた。
三叉路には小さな木の門があって、たくさんの花模様で彩られた真ん中に
”ZALIPIE”とくっきり彫られていた。

ザリピエは村中に花模様が溢れている。
一人の女性画家がペインティングアートを始めたことに端を発し、
やがて村の女性たちに次々と広まった。
家の外壁から室内まで延々と続く花模様。時には井戸や犬小屋まで続く。
十字架にも花模様が掲げられている。

もう花柄が識別できないほど暗くなった夕闇のなかを歩いていたら、
心配そうにこちらを見ていた老夫婦が、天井に頭がつくほどの小さな車で
村から数キロ離れた宿へと連れて行ってくれた。
秋の美しい夕暮れ。

翌朝、濃い朝霧に視界を遮られながらも歩いて村を目指す。
途中で車にひろわれ村の中心に着いた。
中心には文化会館があり、職員があたたかく迎え入れてくれた。
ひとつの扉を開くとおばさんたちが集まってペインティング作業をしている。
ここでお土産品などが生み出されているようだ。
皆にここまで辿り着くのにどれほど大変だったか伝えると、大きな高笑いが響いた。
優しいおばさんたちの笑顔でこれまでの苦労が浄化されたような気分だった。
村の真ん中にあるひしゃげた小さな家。
こんな家なら帰ってくるのがどんなに楽しいことだろう。

文化会館でもらった真新しい村の地図を広げ、点在するペイントハウスを探し歩く。
見慣れたルーマニアの村のひしめくように密集した家々と違って
ここでは家と家がかなり離れている。

鮮やかに彩られた家を眺め歓声をあげていると、
ひょっこりとおばあちゃんが出てきて家の中へ招いてくれる。
室内もやはり美しくペイントしてあり、圧倒される。
家具はもちろんのこと、やかんや鍋、食器にまで花模様が及んでいる。
さらに洋服にも花模様が描かれていて驚く。
見渡す限り全てのものにペイントされているようだ。
物置がこんなに可愛くペイントされている。
井戸も隙間がないほどに模様が描き込まれている。

村を見ていて面白いのは、描き手によって画風が異なること。
色の選び方や筆遣い、花の捉え方も全然違う。
すごく丁寧に描き込んでいる人もいるし、大雑把な人もいる。
それぞれ個性的で魅力がある。
家の横に自分の作品を収納している小さなギャラリーを持つ人もいる。
人物の描き方も独特で面白い。

村を半周まわったところで博物館に行き着いた。
ここはペインティングアートを村に広めた張本人フェリツァ・ツリウォーヴァの家。
こぢんまりとした母屋には壁から天井から所狭しと花模様が彩られ、
窓にはペインティングアートと同じくらい普及している切り紙が貼られていた。
細かくカットされた切り紙の穴からは弱い日の光が差し込んでいる。
天井には薄い色紙で出来た造花が束になっていた。
これは照明らしい。夜に点したらどんなに綺麗だろう。
窓を飾る美しい切り紙。
家中の至るところに花模様が見受けられる。
この造花の束はお祭りの飾り。
単調ながらも印象的な切り絵。

家々の花模様と同様に、教会も花模様で埋め尽くされていた。
こんな教会が他にあるだろうか。
特に懺悔のための小さな薄暗い小部屋には花模様がぎっしり描かれ、
何か悔いのある行いをしても、希望を与えてもらえるような、そんな部屋だ。
教会内にある小部屋は花畑のよう。

地図に載っていた花柄の家々を網羅した頃、夫がまだ見ていない家があるという。
博物館に置いてあった資料に載っていた一風変わったペイントが見たいと。
村人に聞くと、中心から少し離れたところにあるはずだと言われた。
花柄の家々が突然姿を見せなくなり、畑と無地の家が交互に現れるだけになった。
そんな一本道を歩いていた時に、古い大きな納屋に白馬の絵が見えた。
村に着いてから一番の喜びようを見せる夫。
どこか彼の描く下手な絵に似ている。どうも憎めない変な絵に。
それは、家畜の鳴き声がする大きな納屋に描かれていた。
白馬にまたがった男の人の絵。手には花束を持っている。

雪が降り始めた今、村の女性たちの手は一層はかどっていることだろう。
家を飾り立てるということ以上にペインティングは冬の唯一の楽しみなのだ。
春の訪れのような色鮮やかな花々の芽吹きを一筆一筆描き、長い冬を過ごす。
すると、年中春のように心地良いうららかな心持ちでいられるに違いない。
筆を持った優しい笑顔のおばさんたちを見てそう思った。

text by : yuki
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