2011.01.14 Friday
アウシュヴィッツに取り残された鞄
北国のポーランドでは、霜月に入ったというのに
夏のような強い日差しが降り注いでいた。
青空の下、古都クラクフの城壁に囲まれた小さな広場では可愛い民族衣装を身に着けたおじさんたちが楽器を演奏していた。
アコーディオンやラッパから流れてくる音楽は
愉快でもありどこか寂しげでもある。
帽子にクジャクの羽を付け、縞模様のズボンをはいた演奏家たち。
公園を横切って、駅裏のバス停からアウシュヴィッツ行きのバスに乗った。
ポーランドへ来たのだからアウシュヴィッツへ行くべきだと夫に説得されたが、
私の気持ちは行きたいような行きたくないような中途半端なものだった。
どこか怖いものを見てしまうという意識があり、どうも気乗りしなかった。
史実に目を背けて……と思われそうだが、実際そんな気持ちだった。
強制収容所といえば、映画で観た「死の門」と呼ばれる入り口へ
真っすぐに伸びた列車の引き込み線が印象的だ。
列車だったらきっとここに連れて来られた人の心境をより身近に感じただろう。
バスでも胸騒ぎのするようなそわそわした感覚に襲われた。
とはいっても、彼らはどこに連れて来られたのかさえ分からなかったかもしれない。
バスは博物館の駐車場に止まった。
にも関わらず、どこがアウシュヴィッツなのか分からず敷地を出て探してしまった。
収容所跡などの敷地全てが野外博物館となっていることを知らなかった。
入り口を抜けるとすぐに様々な書物で見たことのあるあの鉄の門が目の前に現れた。
”働けば自由になる”という文字の掲げられた例の門だ。
3文字目のBが逆さまになっていることが、抵抗の証だといわれている。
過酷な労働に従事させられていた囚人のささやかな抵抗が見られる。
遮断機が上がったままの門をくぐると、その先には
土埃の舞う殺風景な茶色い世界が広がっていた。
そのなかに気味が悪いくらいに整列して建つ煉瓦造りの囚人棟と
申し分程度に植えられたポプラの木があった。
28棟もある囚人棟は半分ほど開放されていて、棟ごとに展示内容が違う。
その半数はナチスや囚人について、残りの半数は収容された囚人の母国が
それぞれの見せ方でアウシュヴィッツについて展示をしている。
収容されたのは、最初こそポーランドの政治犯だけであったが、
のちにユダヤ人、ジプシー、反ナチス活動家、同性愛者、障害者、聖職者、
さらに彼らを匿った者も捕らえられたそうだ。
ヨーロッパ中の国々からこの地へたくさんの人が送り込まれた。
当時の写真がたくさん展示されているが、あまりにも悲惨で直視できない。
展示場になっている棟は室内が綺麗で広々としているが、
当時の姿をそのままに残している棟もある。
特に11号棟は他の棟とは雰囲気が違う。
細く真っすぐに伸びた廊下の両側に均等に部屋があり、蛇口が等間隔についた
細長い共同の洗面台や個室のないむきだしの便器が並ぶトイレ、
囚人服が掛けられた洗濯場や3段ベッドが隙間なく並べられた部屋などがある。
壁は剥がれ落ち、ひどく汚れているが、所々に誰かが書いた落書きが残っている。
薄暗い棟内は自然光がなければほとんど何も見えないだろう。
息苦しい室内から早く抜け出したい気持ちになる。
別の棟で見つけた落書き。皆囚人服を着ている。
もっと驚くべき光景が別の棟にあった。
ガラスケースに入れられていたのは、囚人から没収した無数の
衣類や靴、眼鏡、琺瑯製の食器や鍋、ヘアブラシに歯ブラシ。
皆大きなトランクに持てるだけの荷物を詰め込んで来たのだろう。
名前を書くように促されたその大きな革のトランクには
どれも白いインクで名前と住所が書かれていた。
きっと誰もが出所する際に戻ってくるものと信じて疑わなかっただろう。
楽しい旅をするはずのトランクが山積みになっている。
美味しい食料を入れていたであろうカゴもまた山積みになっていた。
一番ぞっとしたのは、囚人たちから切り取られた髪の毛だ。
収容される際に管理番号の札と共に撮られた証明写真は
男性も女性も不揃いな虎刈りだった。
ここに到着してすぐに髪を切り落とされたのだろう。
綺麗に編まれた三つ編みもリボンのついた状態で残っていた。
何が展示されているか分からないほどおびただしい髪の毛の束は
隣のガラスケースの中で絨毯に変わっていた。
外に出ると、その天気の良さに救われた。
この日がどんよりとした曇り空だったらきっと気が滅入ってしまう。
高圧電流が流されていたという二重に張り巡らされた有刺鉄線沿いに歩くと
見張り塔のその先にソウァ川が見えた。
そこには雑木林が広がっていて、よその郊外となんら変わりない。
高い塀と有刺鉄線の内側でこんな惨劇が起きていたなんて不思議だ。
有刺鉄線の手前には今もドクロマークの警告看板が立っている。
ナチスによる迫害については様々な議論があり、
どこまでが事実で、どこまでが戦時中に起こった情報操作なのか
いくつもの文書を読んでも史実はよく分からないが、
ここで何かしらの悲劇があったことはきっと確かだろう。
ビルケナウへ行く最終のシャトルバスに少しの差で乗り遅れ
バス停のベンチに座って今見てきたことについて二人で話していた。
夕方のアウシュヴィッツは静かで物悲しい。
一番強く感じたことは、平和の尊さよりも、もっと身近なことで、
いつも蚤の市などで気に入って手に取っている古い鞄や食器や雑貨と
何ら変わりないものが山積みになっているのを見て、とても切ない気持ちになった。
蚤の市では以前どんな人がどんな時にどんな思いで使っていたのか
その物がたどってきた歴史を思い巡らすのが楽しいけれど、
ここにあるものはどれも悲しい空気をまとっていてひとつひとつ見ているのがつらい。
名前が書かれたトランクは今も持ち主が持ち帰ってくれるのを待っているかのようだ。
悲惨な写真よりも、長い解説よりも、物には強く何かを訴えかけるものがあった。
text by : yuki
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