2014.12.06 Saturday
クサスカのサンドウィッチ
「これからターンツハーズに行かない?」
ルーマニアに住んでいた当時、町から遠く離れた村で催された
お祭りからの帰り道、列車の中で男に声を掛けられた。
大荷物を抱えていたので迷ったが、ターンツハーズという
楽しそうな響きにつられて、知らない村に向かうことにした。
彼は「荷物を家に置いてくる」と言って、幾つか前の駅で降りた。
日没の早い初冬の夕方、道行く人に尋ねながらターンツハーズへと急ぐ。
ターンツハーズとはハンガリー語で”踊りの家”という意味。
とっぷりと日が暮れた村に、煌々と明かりの漏れる建物が見えた。
そこは廃墟と化した殺風景なホールで、あどけない少女が数人、
民族衣装のプリーツスカートをなびかせて、くるくると踊っていた。
隅に設けられた長椅子に座って、勧められるがままに
ツイカを飲んでいると、村人が続々と集まってきた。
列車で会った男とも合流し、哀愁漂うジプシー楽団の演奏が始まると
子供から年配の人まで男女が手を取り合って踊り始めた。
老朽して壊れた屋根からは冷たい風が容赦なく吹き付けていたが
人々の熱気でホールが温まっていくのが感じられる。
踊り慣れていない私はビールを飲みながら民族舞踊を眺めていたが
新しい相手探しに熱心な人から強引に手を引かれては
ホールの中心へと連れてこられ、見よう見まねで踊ることになった。
「そろそろ帰ろうか?」という話になったのは深夜の3時過ぎだった。
町へ戻る電車は日が昇るまで来ないし、歩いて帰るには遠過ぎる。
酒と踊りの疲れで目眩のするなか頭が回らずにいると
彼は「よかったら家に泊まりなよ」と声を掛けてくれた。
彼の友人の車で隣村まで送ってもらうことになった。
外灯すらない真っ暗な道を走っている途中「お腹は空いてない?」と訊かれ、
そういえば酒ばかり飲んでいて、何も食べていないことに気が付いた。
だが、こんな時間に開いている店などあるはずがない。
「ビールでお腹いっぱいだよ」と遠慮して答えたのだが
彼は何か察したようで、どこかに電話をかけ始めた。
民家の前で車が止まり「ちょっと待ってて」と言うと
彼は満面の笑みを浮かべてすぐに戻ってきた。
小脇には1斤のパンを抱えている。
真夜中にパンを貰いに友人の家を訪ねることに驚く。
家に到着するなり、彼はツイカを振る舞ってくれた。
そして、赤い液体の入った瓶を持ってきてパンに塗り始めた。
これはザクスカといってトマトやパプリカなど様々な野菜を煮込んで作る
保存食で、大量に拵えて瓶詰めにして、収穫の少ない冬に備えておくもの。
そのザクスカをたっぷりとのせたパンを「どうぞ」と手渡されたのだが
蓋がちゃんと閉まっていなかったのか、空気に触れていた表面の部分が
明らかに白くカビていて、異臭を放っている。
しかし、これだけ親切にしてもらって食べられないなんて言えるはずもなく
パンをもう1枚もらい、腹を壊す覚悟でザクスカを挟んで飲み込んだ。
その後にパンを手渡された妻は、空気に触れていない中の部分だったので
私の葛藤に気付くはずもなく、隣で美味しそうに食べている。
堪え難い後味をツイカでごまかして、そのまま眠りについた。
翌朝、案の定腹を壊した。
「何か飲む?」と訊かれたので「水をもらえるかな」と言うと、
彼は首を振って「ビールにしよう」と真面目な顔で返してきた。
どうやら「ツイカにする?ビールにする?」という質問だったらしい。
昨夜あれだけ飲んだのによくビールなんて......と思いつつも
陽気な彼に連れられて、村唯一のバーへと繰り出した。
帰り際、彼はお土産にといってザクスカをひと瓶持たせてくれた。
列車に乗り込み、ようやく妻に昨夜のサンドウィッチの話ができると思い
「ザクスカがカビていて臭くてさ」と言おうとしたら、つい
「クサスカがカビていてさ......」と言ってしまい、笑うしかなかった。
帰宅するなり、瓶から表面のクサスカを取り除き、改めてザクスカを味わった。
野菜の甘みが口いっぱいに広がり、昨夜の悪夢を忘れさせてくれた。
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