偽物の白い羽

小さな女の子が運転するおんぼろバイクの後ろに乗っている。
「おじいちゃんのお店に行きたいの」と女の子は振り返る。
渋谷に向かうはずが駅を通り越してしまい、戻りたいが
線路沿いに一方通行が続いていて、前にしか進めない。
緑色の電車がゆっくりと私たちを追い越していく。
その電車には数えきれない人々が乗っているのに
不思議なことに道路には誰ひとり歩いていない。

赤煉瓦の広場が見えてきて、恵比寿まで来てしまったことに気付く。
ようやく分かれ道にさしかかったので、そこを右手に入っていく。
すると急な下り坂になっていてブレーキが利かなくなってしまい
そのまま真っ暗なトンネルに入ると辺りは何も見えなくなった。
吹き飛ばされないように小さな背中にしがみつき目をつぶると
宙を浮いているように気持ち良くて、うとうとしてしまう。

眩しさを感じた時、そこはシギショアラというルーマニアの古都で
仕掛け時計のある教会と赤煉瓦の家々が見渡す限りに広がっていた。
バイクから降りて、その美しい風景の中をふたりで歩きたいと思うが
下り坂はさらに急になり、赤茶色の景色はすごい速さで過ぎ去っていく。
見上げた空が海のように真っ青な色をして流れていくので
「あれはきっと雲じゃなくて泡だよね」
と呟くが、女の子は振り返らない。

鋏でちょん切ったかのように道路は突然なくなり、下に落ちていく。
底に落ちるまでに長い時間があったので楽しくおしゃべりをする。
なんて素晴らしい一日だったのだろうと笑い合っていると
このままずっと飛んでいられるのではないかと錯覚する。
背中に目をやると白い鳥の羽が生えていて驚くが
すぐにそれが残布で仕立てた偽物だと分かると
「夢のようにはならないんだね」
と女の子はしんみりと言った。
「これは本物の夢なんだよ」
と返すと同時に底に落ちた。

そこは、底ではなくベッドの下だった。
もう一度眠れば、またシギショアラへと戻れそうな気がしたが
その音で目を覚ました子供たちに馬乗りになられて夢は終わった。
あれは昔、東京を走り回っていたおんぼろバイクによく似ていた。
いつか本当にルーマニアを走り回れる日が来たらどんなにいいだろう。

text by : tetsuya

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岩井さんタクロース

「岩井さんからはお金もらわなくていいよね」
頼まれものを届けに行く車中、後ろの妻に話しかけたら
「それは当たり前。当たり前の話でしょうよ」
と息子の口からもっともらしい答えが返ってきた。
その真剣な眼差しに、思わず笑ってしまった。

岩井さんは私の友人というよりも
楽弥の友人という方が正しいのかもしれない。
いつも彼の古道具屋に行くと、挨拶もそこそこに
「ちょっと楽弥と出掛けてくるね。店番よろしく」
とふたりはバイクに跨がり、轟音と共に颯爽と姿を消す。
仲良く両手に袋を提げて、浮かれた表情で戻ってくると
アイスクリームやジュースやスナックをテーブルに広げる。
きっと楽弥が欲しがったものをすべて買ってくれたのだろう。
お礼を言おうとすると彼はさえぎるように言う。
「俺が食べたいだけだから」

誰かにこの古道具屋に連れて行ってと頼まれると複雑な気持ちになる。
教えたくないとか、そんな訳ではないのだけれど、考えてしまう。
あそこで過ごしている時間は夢でも見ているかのように心地良くて
そのせいか、跡形もなく消えてなくなってしまいそうな気がする。
訪れる度に感動させられるのに、何に感動したのかは憶えていない。
この言葉にできない魅力を感じてくれる人は果たしているのだろうか。
そんなことをぐるぐると、考えてしまう。

友人にどうしてもと言われて向かったことがある。
「行っても開いているかどうか分からないよ」と言うと
「電話したら」と当然のように返されるが、連絡はしない。
彼も私の家に来る時に連絡なんてしてこない。突然に現れる。
すべてはタイミングで、店が開いていたら会うべき時だし
開いていなければ、おそらく会うべき時ではないのだと思う。
不思議なことに誰かと行った時に開いていたためしがない。
友人には申し訳ないが、その度に妙にほっとする自分がいる。

年末に岩井さんが楽弥と希舟に内緒でクリスマスプレゼントをくれた。
日本製のブリキのロボットとぼろぼろのピノキオのぬいぐるみ。
どちらも枕元に置くのをためらうほどに年季が入っている。
楽弥は起きてすぐにロボットを見て大喜びしたが
何かを思い出したかのように急に表情が変わった。
「これずっと前から岩井さんの店にあったよ。あっ。分かった。
 サンタクロースが岩井さんの店で買ってきたんだよ。きっと」

岩井さんの膝の上でアイスクリームを頬張りながら高い所を指差して
「あのさ。サンタクロースがあそこにあったロボットをくれたんだよ」
楽弥が自慢げにそう言うと、彼は真顔で返した。
「違うよ。楽弥。俺がサンタクロースなんだよ」
彼がそう言うと本当にサンタクロースなのではないかと思ってしまう。
ここには値札のない数えきれないほどのおもちゃが転がっているし
クリスマスツリーは一年中色とりどりの明かりを放っている。
それに、あの顔、あの体、あの優しさ、あの雰囲気。
アイスクリームを持つ楽弥の手が止まった。

家に帰るなり、ピノキオのぬいぐるみを抱えて楽弥が飛んで来た。
「パパ。鼻が伸びてないから岩井さんは本物。
 本物のサンタクロースってことでしょうよ」
当のピノキオは自信なさげに首を傾げ
希舟はその細い鼻を握って笑っている。

text by : tetsuya

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ボーと一緒

みんな自慢げにボーを抱えてやってくる。
こんなに可愛くなりましたという感じで抱えてやってくる。
きっと誰もが自分のボーが一番可愛いと思っているのだろう。

私だって心の中ではアトリエにあるボーが一番だと思っている。
Fredericのぬいぐるみの中でも一番最初に出来上がったもので
人間でいうところの15歳になる。

当時はデザイン画を描く毎日だった。
生意気に一刻も早く独立したいと思い学校を辞めて
開店資金を貯めるために子供服の会社で働いていた。
そんな向こう見ずな私に感化されて学校を辞めた妻は
就職する気配もなく毎日ぬいぐるみを作り続けていた。
時間ばかりかかってお金にならないぬいぐるみを
いったいどれだけの間、作り続けていたのだろう...。

ある日、仕事から帰ると毛の舞う部屋にくまがいた。
重たそうな瞼とつぶらな瞳で私を見上げていた。
興味のないふりをしたが、感動していた。
心の底から感動していた。

それから、ボーは暮らしの一部となった。
小さな家も小さな店も買い付けの旅も放浪の旅も
子供たちが生まれる瞬間も思い出すと必ずそこにはボーがいる。

長い旅の途中、荷物が重過ぎて嫌になることが度々あった。
私のリュックサックには食料や古物がぎっしり詰まっているのに
妻のリュックサックにはボーしか入っていない。
パリで暮らす友人は私のリュックサックを背負おうとしたが
あまりの重さに立ち上がることすらできなかった。
続いて妻のリュックサックを背負うとあまりの軽さに驚いて
「ポケットティッシュみたい」と腹を抱えて笑った。
こんなものを旅に持ってくるなんてと不満に思うこともあったが
夜になって星空の下、ボーを枕にして眠ると幸せな気持ちになり
やっぱり一緒に旅して良かったと思える。

そんないくつもの旅を共にしてきたボーの毛は黒ずんで束になり
「本当に同じ生地ですか」と訊かれるくらい別物になっている。
こんなくたびれたボーはどこにもいないだろうと思っていたが
友人の子供、いろはのボーはもっともっとくたびれていて
「本当にボーですか」と訊きたくなるくらい変貌していた。
幾度となく直されたつぎはぎの体とストーブで溶けた目のボーには
これまでいろはが注いできたであろう愛情がぎゅっと詰まっていた。

しかし、いろはが生まれた時から肌身離さず可愛がっていたボーは
都会の真ん中で行方不明になり、そのまま戻って来ることはなかった。
いろはの誕生日プレゼントにと再びボーを注文してくれたのが数年前。
妻も私も以前のくたくたになったボーの存在をよく知っていたので
新しいボーの姿にかえってがっかりしないかと心配していたが
いろははじっと見つめてから黙ってぎゅっと抱きしめた。

次に会った時にいろはのボーを見て驚いた。
以前のボーにそっくりなのだ。ほんの少し見ないうちに...。
ただ汚れているのではない。
いろはが毎日抱きしめているということを
よれよれになったボーの体が物語っていた。
やっぱり、いろはのボーは、いろはのボーになるんだな...。
ぬいぐるみは誰かの手に届いたその瞬間から育っていく。
育てていくのではなくて勝手に育っていくのだと思う。
楽しい時も悲しい時もずっと一緒にいることで
お互いが成長していくような気がする。

2月18日(土)の昼12時〜13時の1時間のみ
2017年のFredericのぬいぐるみのご注文を承ります。
短い時間ですがどうぞよろしくお願い致します。
詳しくはNewsをご覧ください。

text by : tetsuya

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お菓子とお仕事

「お菓子が欲しい」と騒ぐ子供たちふたりを連れて
保育園からの帰り、スーパーに寄り道をする。

夕食前に家で袋を広げるのは気が引けるので
アトリエに寄り、子供と一緒にお菓子を食べていると
「パパの黒けもの格好良い」と私の刺繍を褒めてから
「お菓子はママに内緒だよね」と息子が確認してきた。
なんてずる賢い奴なんだと思わず笑ってしまう。
「きっきーもママに内緒にできるよね」と妹に念を押し
娘も娘でうんうんと何度も頷いてお菓子を頬張っている。

家に帰るなり、口元に菓子くずをつけた息子は妻に駆け寄る。
「ママのぬいぐるみ可愛い。ボーちゃんとかさ。チェズとかさ」
これでアトリエに寄って何かを食べたことはすぐにばれるが
息子はそんなことには気が付かずにさらに調子にのっている。
「ネコもさ。カバもさ。ゾウさんもさ。ぜーんぶ可愛い」
褒めちぎられた妻は問いただすのをやめて
「ありがとね」と笑って返事をした。

お菓子で膨れたお腹に子供たちを乗せて遊んでいると
ふと、息子が飾ってくれた黒けものの本が目に入った。
もう4才になって色々な物事が分かるようになった息子は
私たちふたりの仕事をどういう風に捉えているのだろうか。

会社に出勤するわけでもなく、通うのは近くにある古い洋館で
そこには刺繍の作品やぬいぐるみが並び、古物が転がっている。
時には上映会や音楽会が催されて、おおよそ仕事場とは思えない。
平日は保育園なので作業をしている姿を見ることは滅多にないし
週末に子供たちを連れて打ち合わせや納品に行っても
食事や酒に囲まれて子供そっちのけで楽しんでいる。
果たして息子は仕事をどう解釈しているのだろうか。
遊びと仕事が一緒くたになってはいないだろうか。

でもそれはそれでいいような気がする。
一緒くたになっていてもいいような気がする。
遊ぶように仕事をやれることほど幸せなことはない。
楽しみながら仕事をやれることほど幸せなことはない。
山あり谷あり、いや、谷ばかりで一向に山には辿り着かないが
好きな仕事をやって好きなように暮らしていくことを
幸せに感じてくれたらそれだけでいい。

2月にFredericのぬいぐるみの受注を再開します。
詳しくはNewsをご覧ください。

text by : tetsuya

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黒けもの音楽会

各地を巡った黒けもの展は昨年末で幕を閉じ
今はアトリエの壁一面に黒けものが戻って来た。
これからそれぞれの場所へ旅立つことを知ってか
黒けものは少しばかりか緊張しているように見える。

最終日の音楽会は黒けもののお別れ会だったのかもしれない。
黒い糸でつながれた縁で大勢の人が佐原に遊びに来てくれた。
二十四脚の椅子では足りず自宅からもあるだけの椅子を運ぶ。
演奏が始まる前に興奮している子供たちを昼寝させようと
車に乗せて走るが、楽しみが勝って一向に眠ろうとしない。
むしろ眠るものかと意地になって目を開けている...。

momo椿*のmauさんとannieさんの黒いアコーディオンから
奏でられる美しい音色と歌声に子供の声が混ざる。
大勢いた子供の中で騒いでいるのは息子と娘だけ...。
子供を見るつもりで一番前に座ったのに息子は走り回り
娘は二階へ駆け上がり、気付いたらひとりで座っていた。
最前列で楽しんでいる場合じゃないのは分かっていたが
聴き惚れてしまい、なかなかその場を離れられなかった。

休憩には菜々さんがとびきり可愛いお菓子を用意してくれた。
この瞬間までその姿を目にしていなかったので
誰よりも歓喜の声を上げてしまった。
「黒けものクッキーを作って欲しい」
そんな漠然としたお願いに、刺繍詩集から感じた
黒けものへの想いを込めて彼女はクッキーを焼いてくれた。
刺繍とそっくりにかたどられた、ほろ苦いココアクッキーに
カルヴァドスに浸けたラズベリーとチョコレートが挟んであり
黒けもののうわべだけでなく、心の内までもを表現してくれた。

テーブルの上に並んだ黒けものクッキーを夢中になって選ぶ。
子供も大人も顔をほころばせながら幸せそうに選ぶ。
これほど黒けものへの愛が詰まったクッキーは
きっと菜々さんにしか作れないだろう。

日が沈むとともにまた静かな熱気に包まれた。
momo椿*のおふたりの澄んだ歌声がアトリエに響く。
黒けものもアコーディオンの旋律に聴き入っているようだった。

「どうするのこの椅子...」
佐原に越して来る前日に買った二十四脚の椅子の山を前にして
妻は途方に暮れていたが、その時に思い描いていた夢が
目の前で実現したことに私はひとり喜びを感じていた。



text by : tetsuya

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黒い空

「誰が空に黒い絵の具をかけてるんだろうね?」
沈んでゆく夕陽を眺めて、息子はそう呟く。
そんな時、なんて幸せなんだろうと感じる。

私はいつも彼に教えてもらっている。
彼は私よりもずっと楽しい生き方を知っている。
彼は私よりもずっと正直に真っすぐ生きている。

蕎麦猪口におしっこをしたり
服を着たままお風呂に入ったり
生クリームを顔中に塗りたくったり
大好きなアイスをひとつ残らず買ってきたり...
叱ることを忘れ、つい笑ってしまうことばかりする。

蕎麦猪口におしっこをしたのは衝撃だったが
衝動を抑えるくらいなら思いのままにやれば良いと思う。
服の繊維が浮いた湯船に浸かりたくはないが
どんな気分なのか味わうのも良いと思う。
誕生ケーキに浮かれて生クリームだらけになれば良いし
真冬にアイスを食べて震えるのも良いと思う。
人生を楽しんでいる...それで良いと思う。

息子は嬉しい時に飛び跳ねる。
笑いながら何度も何度も飛び跳ねる。
息子は悲しい時に地面を踏みつける。
泣きじゃくり何度も何度も地面を踏みつける。
大人にはない表現が子供にはあり
子供にはない表現が大人にはある。
大人はたいてい恥ずかしがり屋なのか
飛び跳ねたり、地面を踏みつけたりしない。
それか的確な言葉を覚えていくにつれ
そういった表現を忘れてしまうのかもしれない。

「おとなしくしなさい」とは「大人しくしなさい」と書く。
無邪気な子供に大人のようにしなさいとはあまり言いたくない。
逆に大人に「子供らしくしなさい」と言ったらどうだろう。
きっと純粋な表現を取り戻すことなんてできない。
だから子供の一瞬一瞬の感情が愛おしいのだ。
子供といるとそんなことを考える。

最近、息子の塗り絵が真っ黒になった。
保育園から持ち帰った塗り絵を束にして
「パパにプレゼント」と言って渡してくれるが
どの塗り絵も黒い絵の具で塗りつぶされている。
これまで黒なんてほとんど使ったことがなかったのに...。
もしかしたら心の闇が表れているのかもしれないと心配したが
「これもこれも...ぜんぶ黒けものだよ」と嬉しそうにしている。
誕生祝いに渡した『黒けもの』の本を大切にしている息子は
黒けもので誰もが喜んでくれると勘違いしているようだ。

「冬はすぐに黒になっちゃうよね」
日が短くなり遊び足りない様子の息子は続ける。
「でもさ...星がいっぱい見えてさ...綺麗だよね」
空が黒くならなければ星は輝かない。
私はまた彼にひとつ教えてもらった。

text by : tetsuya

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黒けもの

黒けものは東京での務めを終えて
ぞろぞろと川越へと連れ立った。
刺繍詩集『黒けもの』を携えて。

黒けもの展を開催したことで作品について問われるようになった。
それぞれの問いの答えを探しているうちに、黒けものの物語を
何となくだけど少しずつ理解し始めたような気がする。
自分で作っておきながら変な話だけれど...
想像はただ頭の中にしまっておくのではなく
言葉にして伝えることが大切だということに気付いた。

黒けものの物語は、馬に跨がった男が落馬して死んでから始まる。
死後の世界に光が射すことはなく辺りは暗くて何も見えない。
男は何かの気配を感じる度に「君は誰か」と問いかける。
しかし皆一様に「私は黒けもの」と答える。
名前なんて誰かが勝手に決めたもの。
ここではそんなものは必要ない。
光が射さなければ色もない。
黒けものに問いかける男も黒けものなのだ。

物語は刺繍展をやることが決まってから急に思い浮かんだ。
馬に跨がる男も、馬から落ちる男も、馬に去られた男も
本を作ることなんてまったく考えずに刺繍したのに
まるで物語にそって拵えたかのようにしっくりきた。
本のために作り足した訳でも選んだ訳でもない。
作りためてきたすべての刺繍で物語は生まれた。

いつだったかコシラエルのちかちゃんが
「刺繍展を私のアトリエでやるのはどうかな」
と誘ってくれたのは何かの導きだったように感じる。
「気の向くままに刺繍してほしい」とその時に手渡された
彼女の真っ白な服が、黒けもの展のための最後の作品となった。
ジャケットには馬を食べた狐を、スカートには子馬と子狐を刺した。
頼まれた通り、気の向くままに刺繍して生まれた馬と狐の親子が
死後の世界から光の射す世界へと飛び出していく話に繋がった。

『黒けもの』の本が仕上がったのは着手してからひと月後のこと。
東京の展示には間に合わなかったが、思いのほか予約をいただき
これから多くのお客さんのもとに本を届けられるのが嬉しい。
もうひとつ嬉しかったのは、保育園で『黒けもの』の本を
娘のいる1才児の部屋で先生が読み聞かせしてくれたことだ。
小さな子供たちが輪になって、黒けものをじっと見つめているのは
異様な光景だったが、子供にこそ読んでもらいたかったので感動した。
まだ字が読めなくても目で見て感じるものがきっとあると信じている。

もともとは息子の4才の誕生日プレゼントにしようと作り始めた本で
漢字を使わないにしようか...もっと解りやすい言葉にしようか...とか
色々悩んだが、大人にも何かを感じてもらえたらと思い推敲を重ねた。
詩のことを考え過ぎて、自分も黒けものになったような気分だった。
息子はアトリエに来る度に「黒けもののお話はご本になった?」
とずっと楽しみにしていたので、誕生日を待たずして渡した。
こんな色のない本を喜んでくれるかなと心配だったが
彼はもう詩を暗記するほどに読み込んでいる。

黒けものは川越での務めを終えると福岡へと旅立つ。
長旅の後にはどんな出会いが待っているだろう。

text by : tetsuya

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津留さん

「手伝いましょうか?」
欲しかったこの一言は彼の口からすぐにこぼれた。

刺繍の巡回展を開催することが決まり、浮かれていた夜に
考えてもいなかったチラシのイメージが一気に頭の中に広がった。
パソコンに長く向き合うことのできない私は
まずクロッキー帳に筆で絵を描くことから始める。
墨で塗られた黒けものの体に修正液で文字を書き込み
コピー機を駆使して切り貼りし、イメージを形にしていく。
ふと、専門学校に通っていた15年も前のことを思い出した。
ドシエと呼ばれるイメージブックを作るために夜中のコンビニに通い
コピー機で拡大と縮小を繰り返し、狭い部屋で切り貼りしていた日々。
眠い頭で操作すると、欲しかった素材が切れてしまって落ち込むが
もう小銭もなく、これも悪くないなと自分で自分をごまかしていた。
時を経ても、あの頃のやり方と何ひとつ変わっていない。

デザインはすぐに決まったが、ここで手が止まってしまった。
入稿するにはパソコンと向き合わなければならない。
それに頭を抱えていた時に電話が鳴った。
「刺繍展のチラシはどうするんですか?」と津留さんに訊かれ
「イメージは出来てるんですが...」と言葉を詰まらせる私に
「手伝いましょうか?」という救いの一言がこぼれた。
「えっ!本当に?」と大袈裟に驚いてみせたものの
どこかで彼のこの一言を待っていた気がする。

私は黒けものの絵を描き足す度に津留さんに送った。
成功も失敗もない。描いたものすべてを送り続けた。
大量の黒けものの中から、どういう基準かは分からないが
琴線にふれた黒けものを厳選し、彼がレイアウトしくれた。
この最初の原稿が素晴らしかった。
コーヒーカップを帽子さながらに被ったカメの甲羅に
のんきなウサギがそっぽを向いて座っている...
彼の遊び心に心底感動していた。

そこから連日連夜のやりとりが始まった。
チラシの画像がメールで届く度に、電話で微妙なニュアンスを伝えた。
「ウサギが楽しそうに見えるように1ミリ上に」とか
「カメの甲羅にある小さな塗り落としを潰して」とか
細かい修正にも津留さんは嫌な顔ひとつせず...
電話の向こうだから嫌な顔をしていたかもしれないが
「99回までの修正は許します」と笑ってくれる。
そんな彼のおかげで理想のチラシが仕上がった。

そして今は黒けものの本を一緒に作っている。
刺繍の詩集は30ページほどになる予定だが
きっと津留さんは2999回の修正に応えてくれ
これまで見たことのないような面白い本になると信じている。
「手伝いましょうか?」の一言が大掛かりなことになってしまい
今頃、後悔しているだろうか...
いや、電話口での彼は意外と楽しそうにしている。
もしかしたら黒けものに取り憑かれているのかもしれない。

津留慎太郎。33才。11月生まれの蠍座。
胡散臭い丸眼鏡で東欧の古物を愛でる店主。

写真はチラシに落選した黒けものを可哀想に思い
津留さんが心を込めて制作した没黒けもの集合体。

text by : tetsuya

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黒けもも

目を覚ますとベッドの上の布団は膨らんでいるが、そこに人の気配はない。
今日も夫は仄暗いうちに、こっそりアトリエへと出掛けて行ったようだ。
子供たちが起きだして、膨らんだ布団に「パーパー!」と飛びつくが
布団はぺしゃんと潰れる。これがいつもの朝の風景。

保育園が始まる時間になると、がらりと縁側の窓が開き
慌ただしく子供たちを車に乗せて、保育園へと送ってくれる。
そのままアトリエに戻ると、食事をものの数分で済ませるだけで
日がな一日、ルーマニアの黒く太い糸を操っている。

これまで夫が刺してきたイーラーショシュ刺繍の伝統図案は
いつからか自分の世界へと広がっていき、ここ数年の間に
黒い糸で施された動物が1匹、2匹、3匹...と増え続け
気が付けば壁一面に動物が佇んでいる。
花を持ち立ち尽くす朴訥な熊やまんまるに太った怪しく微笑む猫
馬に跨がる紳士や落馬した楽士に帽子の男のシルエット。
家族ひとりひとりの肖像まで刺繍にした。

アトリエに並んだ手提げ鞄に仕立てられた黒い動物は
皆こちらをじっと見据えていて、でもどこか違うことを考えているようで
何か不思議な物語が生まれそうな予感をはらんでいる。

かねがね刺繍展をやりたいという秘めた思いはあったようだけれど
友人の一声によって、堰を切ったように物事が決まっていった。
一夜のうちに電話一本で巡回展の約束を諸処に取り付けて
最終日にはアトリエでアコーディオンの音楽会をやることが決まった。
東京から九州まで友人が刺繍展を快く引き受けてくれたことが嬉しい。

刺繍展の表題を考えていたある日のこと
ぼんやり動物を眺めていると”獣”という一文字が浮かんできたらしい。
たしかに動物も人間も黒い糸で刺されると、なぜか獣らしさをまとう。
その日から彼らは「黒けもの」と呼ばれるようになった。

連日、夫は真夜中まで黒けものを刺し続けている。
これほどまで刺繍に夢中になる父親がいるだろうか。
息子は夕食を頬張りながら、先に席を立ちアトリエへと向かう夫に
「パパ!今日も黒けももがんばってね!」と声を掛けている。
そして娘も負けじと「もけもも...ねっ!」と応援している。

text by : yuki

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半田さん

骨董市で昭和初期の壊れた扇風機を譲ってもらった。
油と埃にまみれた黒い鉄の塊をアトリエに持ち帰るよりも先に
半田さんのテラスに持ち込む。
「半田さんこれ直せますか?」
テラスの奥のにやけた顔に金歯が光る。

「何か直すものはないか?」
半田さんはいつもそう言ってやって来る。
暇と器用な手を持て余しているのだ。
「どこか俺と似ているところがあるのかもな」
何か修理を頼むと半田さんはいつもそう言って帰っていく。
きっと古いものを捨てずに直しながら使い続けているからだろう。
廃材でこしらえた半田さんのテラスには
割れた鏡で作ったシャンデリアや鳥かごに組み込まれたラジオや
謎のオブジェが所狭しとぶら下がっている。

スピード違反で捕まり肩を落としている私のところに
「あそこの橋で60キロオーバーで捕まっちまったんだ」と
半田さんはさらに肩を落としてやって来る。
「あそこを120キロで走ってたんですか?」と訊くと
「そうだ」と深く頷く。
「そうだ」が半田さんの口癖だ。
半田さんは免許証を取り上げられて怒っていた。
「やつら何を言っても聞かねぇんだ」と警察に憤っていた。
確かにどこか自分に似ているところがあるのかもしれない。

半田さんは一度アトリエに来るとなかなか帰らない。
とっくに話は終わっているというのになぜか帰らない。
「何か直すものはないか?」と言いながらアトリエを見回し
民芸品を眺めたり本棚の絵本を引っ張り出して読み始めたり
挙げ句の果てには真っ黒な手で作品を触り始める。
「たいしたもんだ」と言いながら触り続けるので
仕方なく壊れかけの古い木のハンガーを渡した。

翌日、目を疑うほどに艶艶のハンガーを片手に
半田さんは金歯を光らせてやってきた。
私は半田さんが帰ってすぐにその塗料をヤスリで削り落とした。
返って時間を費やしてしまったことに後悔しながら削り続けた。
それから半田さんがアトリエで何かを手にする度に
またあの塗料を塗られてしまうんじゃないかと気が気じゃないが
どんな修理でも気兼ねなく頼めるのは半田さんしかいない。

数日後、半田さんのテラスで壊れていた扇風機が回っていた。
磨かれた真鍮の羽から心地良い風が流れている。
その風を半田さんは顔面で受けながら笑っている。
半田さんが遅くまで配線を直してくれていたのを私は知っている。
けれど半田さんは大変さを微塵も感じさせることなく
扇風機に向かって「そうだ」と子供のように笑っている。
絶対にお礼を受け取らずに半田さんは決まってこう言う。
「半田さんが直してくれたと憶えててくれたらそれでいいんだ」

しかし、ようやくアトリエにやってきた直ったはずの扇風機は
電源を入れても回らなくなっていた。
半田さんは扇風機が直ったことがたまらなく嬉しくて
テラスで回し過ぎモーターがいかれてしまったらしい。
「これで羽を弾けばエンジンがかかるから大丈夫だ」
と網の間から木の棒で羽を弾いた。
モーターが軌道に乗って回転し始めると
「そうだ」と半田さんは金歯を光らせた。

半田さんが来るとまったく仕事にならないのだが
たまに顔を見るとなぜか嬉しくなる。
「しゃべり過ぎて悪かったな」
何も直すものがないと半田さんはいつもそう言って去っていく。
煙草に火を点けて歩く後ろ姿は哀愁が漂っている。
どこかで見たことのある後ろ姿だと思っていたら
五年前に他界した祖父にそっくりなのである。
だから私ともどこか似ているのかもしれない。

半田高生。78才。12月生まれの射手座。
アトリエの向かいで暮らす元バスの運転手。

text by : tetsuya

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