無駄な時間

黒ばけもの展が終わり
散らかっていたアトリエをようやく片付ける気になった。
段ボールの山にはCDとレコードがぎっしりと詰まっている。
それも安価で買ったはいいが一度しか聞いていないものばかり。

いつも音楽を聴きながら制作しているのだが
ただ好きな曲ばかりを流しているのではない。
適当に買ってきてそれを順番に流していくのだ。
一曲聞いて外れだと思っても我慢して聞いていると
七曲目くらいから急激に良くなるなんてこともある。
そんな実験のようなことを制作中ずっと続けていた。

「我慢し続けて良い曲に出会った時の感動はすごいよ」
なんてことを友人に話したら
「我慢して聞く時間も...それにかけるお金も無駄だよ」
と最もらしいことを言われる。
確かにその通りだと思う反面
この感覚は何かに似ているとずっと思っていた。

後からそれは旅だと気付いた。
初めて行く国のガイドブックを読めないのとよく似ている。
妻が行きたい場所を線で結び計画を立てている横で
私はいつも準備もしないでぼんやりしている。
帰国してから復習はできるが予習ができない。
先に知ってしまうことで感動が薄れるのが怖いのだ。
ルーマニアでも運に任せて歩いて辿り着いた村にこそ感動がある。
行く前からその村を目的地にしてしまったら印象はきっと異なるだろう。
音楽も旅もやはり偶然の出会いに醍醐味があるのだと思う。

例えば日本でも喫茶店へ行こうと下調べなんかすると
嫌でも色々な写真が出てきて他人の評価が星で表れる。
その情報を知ってしまった時点で冒険心は失われてしまう。
食べきれないほど大きなサンドウィッチが有名な喫茶店があるとしても
それを知らずに目の前のサンドウィッチに驚きたい。
美味いも不味いも先入観なく自分の五感で感じたい。

もちろん失敗したり無駄になることもあるが
そんなことを続けていると本当に好きなものが見えてくる。
「どうして自分で何も調べないの?」と問う友人への答えと
「この段ボールの山...どうするの?」と呟く妻への言い訳に過ぎないが。

text by : tetsuya

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黒ばけものと赤いリボン



Pretzelと屋号を付けたのは十三年前。
プレッツェルという名のドイツパンが
腕を組んだ子供のシルエットから形作られていると知り
制作していた子供服のブランド名にぴったりだと思い決めた。
そして同時期に始めた小さな店も妻と腕を組んで歩んでいこうと
この屋号をそのまま店名にした。

それから古物を外国へ買い付けに行くようになり
ルーマニアに魅了され、その地で暮らすことになった。
帰国後は子供服を量産する気にも店を再開する気にもなれず
ルーマニアの村で見てきた刺繍という表現に自然と辿り着いた。

黒ばけもの展の期間中、刺繍を始めたきっかけを
お客さんに訊かれる度にそんなことを振り返っていた。
自分でも今こうして黒い糸で刺繍していることや
DEE’S HALLに作品が並んでいることが不思議だった。

素晴らしい空間で展示できたことはもちろんだけれど
典美さんやチコちゃんやキンタに出会えたことが嬉しかった。
一週間も図々しく家族のような気持ちで暮らしていたからか
思い出すのは典美さんが淹れてくれたコーヒーやスムージーや
チコちゃんの分まで食べてしまった美味しいおにぎりのことばかり。
あと猫のキンタとの距離が少しずつ縮まっていくのも楽しみだった。

夜はこの展示のきっかけを作ってくれた津留くんと呑み歩き
アートについて語った。けれどふたりで考えれば考えるほど
変な方向へと話は進み、アートからかけ離れていく。
「可愛いはナメられる」何度この言葉を口にしたことか...。
でもそんなくだらない話が創作の原動力になるのだと思う。
作品が勢いよく売れた時には人目も気にせず彼とハイタッチした。
それは高価な刺繍をバッグという形態で認めてもらえた喜びだった。

現実が夢のようだったからか夜はほとんど眠れなかった。
どれだけ酒を呑んで寝てもすぐに目が覚めてしまう。
きっと楽しい時間を無駄にしたくなかったのだろう。
最後の朝はすごく静かで卒業式の前のような気分だった。
雨上がりに射す光の中、テラスで名残惜しく
ひとり煙草を吸いながら春を感じていた。
勝手にドキンちゃんと呼ばせてもらっていた典美さんと別れる時は
展示に誘ってくれた有り難さとそれが終わってしまった淋しさとで
胸がいっぱいになった。

そんな気はなかったが、帰り道に十三年前に借りていた店と
通っていた服飾専門学校に足が向いた。原点回帰ではないが
この先どう進んでいくのだろうと想像していた。
ずっと刺繍を続けていくのかと自分に問いかけていた。
そんな時に骨董屋で紙に巻かれたシルクの赤いリボンを見つけた。
「これって中までリボンが続いてるんですかね?」と訊ねると
「分からないけど...これは物体としての魅力だね」と返ってきた。
確かに今ある姿が良ければその先は知らなくていいのかもしれない。
"P"と”F”その色褪せた台紙に記されたふたつのアルファベットが
”Pretzel”と”Frederic”を意味しているように感じられて
それをリュックサックに詰め込んで東京を後にした。



text by : tetsuya

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黒ばけものの絵本

絵本が大好きな子供たちは眠る前に必ず
お気に入りの一冊を妻の枕元に持ってくるらしい。
夜の読み聞かせを何よりも楽しみにしているようだ。
私はいつもみんなが眠ってから帰宅するので
その様子を目にすることはあまりない。

黒ばけものの絵本がようやく完成して
届いたその日は子供たちと一緒に眠ることにした。
この物語だけは自分で読んで聞かせたかったのだ。

夢中になって刺繍と言葉を追う子供たち。
しかし読み進めていくうちに楽弥の頭は混乱した。
「えっ...なんで?どうゆうこと?」
ページを行ったり来たり彼は小さい頭で考えている。
それが私には嬉しかった。
不思議に感じたまま終わるのではなく
彼は自分なりに答えを探そうとしている。

希舟は”おなかとせなかがくっついた”という言葉が
いくら想像しても思い浮かばなかったらしく
「ねぇ...おなかとせなかはくっつかないよ」と
まんまるのおなかを触りながらひとり呟いている。
そんなふたりの姿を見れただけで幸せな夜だった。

text by : tetsuya

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黒ばけもの



黒けもの展が終わった一昨年末。
アトリエはけものたちが旅立ってどこか淋しい空気に包まれた。
壁一面の黒けものがじっとこちらを見ていたのに
しばらくはレモンイエローの壁がしんと静まり返るだけだった。

年が明けて、フォークとナイフを手にした少年が壁に現れた。
何かを食べたそうにじっとこちらを見つめている。
この少年は一体何が食べたいのだろう。

それから一年が経ち、フォークとナイフを手にした熊が突如現れた。
ぎょろりとした鋭い目は少年以上に何かを食べたそうにしている。
どんな物語が生まれるのか私は密かに楽しみにしていた。

「次は黒ばけもの展だよ」と夫から聞いた時
彼らが化けていることを知った。
少年のバッグを手にしてみると中に見慣れないポケットがあった。
そこにはあのぎょろりとした目の熊の顔が刺繍されていた。
もしかしてと思い熊のバッグの中を覗いてみると
やはりそこには少年の顔が刺繍されている。
少年が熊なのか...熊が少年なのか...。
早くも黒ばけものの世界に迷い込んでしまった。

気になってバッグの中を覗いていくと
女の子の顔に子豚の顔が重なっていたり
男の子の顔に猿の顔が重なっていたりする。
それはまるでむちむちのお腹とお尻を揺らして歩く娘の希舟と
飛んで跳ねてすぐにどこかへと走り去る息子の楽弥のよう。
どんな人間にもけものらしい部分があるのかもしれない。

刺繍に夢中の夫は髪も髭も伸ばしっぱなしで馬のようになってきた。
早朝から深夜までアトリエにいるので家にはほとんど居ない。
子供たちは家で夫の姿を見つけると嬉しさのあまり
ふたりがかりで馬乗りになり引き止めようとする。

ひとしきり遊ぶと、楽弥は急に分かったような顔で
「パパは黒ばけもの作るから忙しいんだよ。きっきもうだめ!」
と調子に乗る希舟を諭してアトリエに送り出す。
夫の姿が見えなくなると私に耳打ちをした。
「パパの黒ばけもの...がっくん大好き」
楽弥も黒ばけものが生まれるのを密かに楽しみにしているようだ。

text by : yuki

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ゆきだるま



朝から降り続く冷たい雨。
ラジオから流れる各地の積雪情報に大変そうと思いつつも
どこか羨ましさを感じていた。
息子も同じ気持ちのようで物足りなさそうに呟いた。
「雪、降らないかなぁ」

鼻風邪を引いて、初めて耳鼻科にかかった。
長い待ち時間も重なってか珍しく大人しい楽弥。
ようやく終わった頃には待合室には誰もいなくなっていた。

外に出ると、やわらかな雪がはらりはらりと落ちてきた。
辺りはうっすらと積もっている。
「雪、降ってる!ずっと降らないかなって考えてたんだ」
楽弥は喜びの舞を踊り、先程の大人しさが嘘のように
浮かれて飛び跳ねて白い地面に小さな足跡を残していく。

夕食を終えた頃には驚くほど積雪していた。
夫と楽弥はこらえきれなくなって外へと駆け出した。
「おとこのこチームがつくるんだよね、ゆきだるま」
初めての大雪に腰が引けている希舟が言った。
父と兄のことを男の子チームと呼んでいる。
「さむいからさ、おんなのこチームはまってようね」
自分と私のことを女の子チームと呼んでいる。
たいがい女の子チームは楽な方を選ぶ。

家の門から消えていった男の子チームはしばらくして
大きな雪の玉を転がして庭に戻ってきた。
「パパ、がっくんにぃに、ばんがって」と希舟が声援を送る。
真っ白い息を吐くふたりは充実した表情で制作に励んでいる。
「きっきぃ、目と鼻、探してきて!」と夫に頼まれた希舟は
必死になって野菜かごを漁っている。
目にはジャガイモを鼻にはニンジンを頭にはバケツを乗せて
楽弥よりも大きな雪だるまが完成した。

快晴の翌朝、楽弥は布団の中でもぞもぞしている。
冬になってから、毎日のように読んでいた絵本
レイモンド・ブリッグズの『ゆきだるま』のように
夜のうちに遠くへ飛んでいってないかな?とか
朝がきて溶けていなくなってないかな?とか想像して
布団から出られなくなってしまったらしい。
「昨日の場所でちゃんと待ってるよ」と伝えると
慌てて階段を下りて窓にかじりついた。
安堵の表情と輝いた瞳で雪だるまを見つめる。
子供って素敵だなと思う。雪の日は特に。

照りつける太陽でジャガイモとニンジンが落ちてしまった。
保育園から帰ってきて、気を落とさないか心配だが
雪だるまの目と鼻が大好物のシチューになれば
少しは気を取り直してくれるかもしれない。

text by : yuki

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七五三



五歳になる息子と三歳になる娘の七五三を終えた。
十一月に入り、ようやく七五三を意識し始めたものの
写真館での貸衣装にも記念撮影にもどこか抵抗を感じていた。
分からないことばかりだけど、やるなら自分らしくやろうと思い
家族全員の着物を揃えるために蚤の市や骨董屋をいくつもまわった。
ひとつ、またひとつと揃う度に七五三が特別な意味を持ち始めてくる。
その一日に幕が閉じると、心にぽっかり穴が空いたように喪失感が残り
素晴らしく幸せな行事なのだということにあらためて気付かされた。

早朝、楽弥が大好きな美容師の友人が妻の髪を結いに来てくれた。
着付けまでゆっくり二階で寝かせておこうと思っていたのに
こんな日に限って楽弥は早々に目を覚まして降りてきた。
そして彼女と娘の愛莉ちゃんの存在に気付くなり
「えっ!なんで!これって夢?」と目を輝かせた。
いつも寝起きが悪く、保育園に遅れてばかりいるのに
好きな人の声が聞こえると、彼の眠気は吹き飛んでしまうらしい。

いつも早起きなのに、大事な日に寝坊する希舟を起こして呉服店へと急ぐ。
小松ご夫妻とは知り合ったばかりなのに、七五三について相談をすると
お休みの日にも関わらず、家族全員の着付けを喜んで引き受けてくれた。
骨董屋で集めた古い着物を立派な呉服店で広げるのは少し気が引けたが
「これは掘り出し物よ!」と微笑んで、無知な私たちを安心させてくれる。

「なかなか理想の学ランが見つからなくて...」
写真家の渋谷さんが申し訳なさそうに現れた。
七五三の撮影をお願いしてから幾度も連絡を取り合っていたのだが
数日前に渋谷さんが送ってきてくれたラフ画にはこう記されていた。
・貝戸くん...学ラン(つぎはぎ)+マント+ゲタ+ぼうし(特攻隊)
・玄関表札...かまぼこ板などでも可
主役でもない父親が何故つぎはぎの学ランを着るのか...かまぼこ板...
渋谷さんの妄想は私の想像以上に膨らんでいた。

古道具屋の岩井さんも駆けつけてくれた。
「袴か刀か持ってませんよね?」と訊いた時には
「袴も刀もないな〜ごめんよ〜」と言っていたのに
普段連絡をしない古物商の仲間にまで訊いて探してくれて
袴や刀に加え戦前の雪駄や下駄や外套までもを手にしていた。
それを当然のように用意してくれる岩井さんはやはり徒者ではない。

私は最後に記念撮影をする時に着てもらえたらと思い
岩井さんには黒い紋付き羽織りを
渋谷さんには赤い花柄の着物を用意しておいたのだが
撮影が始まるよりも前にふたりはそれを羽織っている。
私たちはひとつの劇団と化して、舞台となる香取神宮へと出向いた。

昼、境内にある古いお茶屋でラーメンをすする。
岩井さんは子供たちが頼んだラムネの中のビー玉の語源について語り
渋谷さんの手の中にあった瓶ビールの王冠は湯呑み茶碗にポチャンと沈んだ。
参道の団子屋で甘酒をまわし飲みしたり、九官鳥と間の悪いお喋りをしたり
何でもないようなことが楽しくて、撮られている感覚もないまま時が過ぎた。

夕方、アトリエで撮影をしながら私は幸せを感じていた。
この洋館に出会っていなければ佐原に越してくることもなかったし
考えてみたら、美容師の友人も小松ご夫妻も岩井さんも渋谷さんも
みんなこの地に越してきてから仲良くなった人たちだ。
そんな友人たちと七五三を祝えたことが嬉しかった。

夜、みんなで酒を呑んでいると電話が鳴った。
「ちょっと家の前に出てきてもらえませんか?」
呉服店の小松さんからだった。
忘れ物でもしたのかなと考えていたら
お祝いのケーキをわざわざ届けにきてくれたのだった。
思わぬプレゼントに驚きと嬉しさで胸がいっぱいになった。
子供たちも大喜びして、一緒になってケーキを切り分けたのだが
相当疲れていたのだろう、ケーキを食べずしてふたりとも眠ってしまった。
幸せそうな寝顔を見ながら、ここまで元気に育ってくれたことに感謝した。

深夜、男たちの話は何故か人間の善と悪にまで及んでいた。
岩井さんは紋付き羽織りを、渋谷さんは花柄の着物を羽織っていたせいか
岩井さんは武士のように、渋谷さんは花魁のようになっていた。
武士が花魁の精神に厳しくも優しく語りかけているようだった。
きっと着物には人格までもを変えてしまう魔力があるのだろう。
机の上には渋谷さんが何かに取り憑かれたように彫ったという
貝戸のかまぼこ板が残されていた。



photo by : kentaro shibuya

text by : tetsuya

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健太郎

雨降りの土曜日、友人がパンとビールを持って遊びに来てくれた。
ひとりは古道具屋の岩井さん、もうひとりは写真家の渋谷さん。
ふたりが現れると何とも言えない独特な空気が漂う。

そんなふたりに描いたばかりの絵本を見てもらった。
「こんな絵が描けたら、これで食ってけるんじゃない」
表紙を見るなり、そう言ってくれた岩井さんとは対照的に
渋谷さんはゆっくりとページを捲り、微笑んでいる。

ふと思い出したように岩井さんは言った。
「てっちゃん、俺と同姓同名の岩井良二っていう絵本作家がいるんだよ」
頭の中に荒井良二という有名な絵本作家が思い浮かぶと同時に
渋谷さんが顔を上げて、私が思ったことを訊いてくれた。
「荒井良二っていう絵本作家もいるよね」

数秒の間が空いてから岩井さんは答えた。
「渋谷さん、俺よく荒井さんに間違えられるんですよ。
 もしもし荒井さんですか?って電話がくるんですよ」
話が飛び過ぎて、ちんぷんかんぷんだが
おそらく岩井良二は荒井良二にもなりうるということだろう。

私は笑いをこらえているが、渋谷さんは真剣な表情で口を開く。
「岩井くん、僕もたまに清水さんに間違えられるんだよね。
 最初の”し”だけしか合ってないんだけど...不思議だよね」
岩井さんはそういう間違えあるよね...という具合にニコニコ頷いている。
きっと渋谷健太郎も清水健太郎になりうるということなのだろう。

笑いをこえて、私はひとつの劇をみせられたような気持ちになっていた。
これが感性の優れた人間の自然な会話の流れなのかと感動していた時に
ゆっくりと玄関の扉が開いた。
自ら醸造したビールに自ら収穫したシチリア島のトウガラシを
手にした男が立っていた。第三の男、啓ちゃんだ。

日が暮れてから、みんなで佐原の大祭に出掛けた。
山車を曳いていた息子は友人たちを見つけるなり走り寄ってきて
「岩井パパ、射的やりにいこうよ」とか
「渋谷パパ、金魚すくいやりたい」と言っては手を引いて消えていき
射止めたキャンディーやどじょうやリンゴ飴を片手に戻ってくる。
目的も知らされないままにどこかへ連れ去られた啓ちゃんは
先端がグルグル回る七色に発光する銃を鳴らしながら戻ってきた。
「変なパパがいっぱい」と楽弥は祭りが終わってもなおはしゃぎ回った。

子供が寝静まってからも異次元の会話が続いた。
”鼻の穴が大きい人間は馬力があるから成功する”
男四人でそんな馬鹿話をしながら時間を忘れて呑み続けた。
夜明け前、風呂を出て眠ろうと思った私の足下で黒いものが飛び跳ねた。
健太郎だ。渋谷健太郎でも清水健太郎でもない。どじょう健太郎。
楽弥が金魚すくいでもらってきたどじょうにみんなでそう名付けたのだ。
移しておいたガラスの鉢から飛び出したらしくピョンピョン跳ねている。
私は両の手のひらでそっと健太郎を水に戻してから眠りについた。

text by : tetsuya

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ブランカとギター弾き

土曜日の朝、車を飛ばして東京へと向かう。
「上映始まっていますがよろしいですか?」
チケット売り場でそう訊かれたので
「やっぱりやめときます」と答えた。
「たった一分だよ。まだ大丈夫でしょ」
と後ろで息を切らした妻が驚いた表情をしている。
「せっかく映画を観に来たのに一分遅れただけで帰るの?」
一日一回の上映なので妻が怪訝な顔をするのも仕方ないが
「その一分を無駄にしたくないんだよ」
そう答えて映画館を後にした。

日曜日の朝八時半、銀座の駐車場でしばし煙草を吸う。
「上映の一時間半も前に着いてどうするつもりなの?」
どこの店も開いていない静かな都会の真ん中で妻は呆れている。
二日続けて同じ場所に来ることになるとは思っていなかったが
それくらいこの映画に惹き付けられていた。
目的もなく気になる道をふらふらと散歩してから
ナッツとビールを買い込んで一番後ろの席に付く。
「なんか生まれて初めて映画を観る人みたいだよ」
どことなく緊張している私を見て隣で妻が笑っている。

物乞いをして暮らす少女が盲目のギター弾きにお金を投げる。
しかしある時には盲目のギター弾きからお金を盗ろうとする。
「前はお金をくれたのに今度は盗るのかい?
 明日の朝食代くらいは残しておいてくれよ」
ギター弾きは少女にただ優しく声を掛ける。
そんな冒頭のストーリーだけで感動していた。
映像美も然ることながら台詞ひとつひとつが胸に響いてくる。
『ブランカとギター弾き』はスラム街を舞台にした映画で
出演者の大半は路上やゴミの山で出会った人々だという。
リアルな光景だからこそ心が揺さぶられるのかもしれない。
きっと長谷井宏紀監督はこの街を心から愛しているのだろう。

ルーマニアでよく遊んだジプシーの子供たちを思い出していた。
彼らは盗みや物乞いもするが、分け与えることも知っている。
「腹は減ってないか?」とお金も無いくせに心配してくれる。
畑から盗んできたネギやトマトを得意気に分けてくれ
お金がある時にはバーでビールまで奢ってくれる。
もちろんお金や指輪を盗られそうになった時には本気で怒るが
一切悪びれることなく、無邪気に笑っている彼らを見ていると
お金を盗ることよりも、お金ごときで慌てている私の姿を見て
楽しんでいるのではないかと思えてくる。
「お前はそんなにお金が大事なのか?」
そう問われているような気がしてくる。
「なんでリンゴは分けられるのにお金は分けられないんだろう」
ジプシーを追っている写真家がそんな事を口にしていたが
彼らと時間を共にしているとその言葉が身に沁みる。
お金がある方が幸せに生きられるのかもしれないが
お金がなくても幸せに生きられるはずだ。

映画に出てくる孤児の少女はお金を稼ぎ母親を買おうとするが
ギター弾きと歌いながら旅をしているうちに深い絆で結ばれ
お金なんかでは買うことのできない愛情があることを知る。
ふたりして大きなリボンのカチューシャを頭に乗せて
嬉しそうにピンク色のわたあめを食べるシーンなんて
愛に満ち溢れていて一瞬で幸せな気持ちにさせられる。

映画館を出るなり、預けていた子供たちを急いで迎えに行くと
リンゴ飴で真っ赤にした口で走り寄ってきた。
大きくなったふたりの子供を両腕で抱き上げながら
早くこの子たちを連れてどこかへ旅に出たいなと考えていた。
いつか映画の舞台であるマニラのスラム街も一緒に歩けるかな。

text by : tetsuya

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ひと夏の約束


いつも聖子さんとの再会はすんなりといかない。
かつてのルーマニアでの待ち合わせも連絡が取れなくて
慌ててバス停や駅を息を切らせて探し回ったことがあった。
どこにもいなくて、仕方なく諦めて帰ろうとしたところに
町の中央広場でにこにこと佇んでいる聖子さんを見つけた。
「ここにいればいつかお会いできると思って」
焦りや不安のないその爽やかで優しい笑顔を見た途端に
力が抜けてこちらもすっかり微笑んでしまう。

去年は駅までお迎えに行く途中で公衆電話から着信があった。
「素敵なお家ですね」と明るい声が響いて驚き、すっとんで家に帰った。
住所を頼りに家を探したようで1本の傘に4人で寄り添って待っていた。
「電話ボックスに忘れ物の傘があったんです。とってもラッキーでした」
濡れた足下も気にせずに聖子さんは心から再会を喜んでくれた。

今年こそお迎えに行こうと駅に向かうが、どこにも見当たらない。
長いこと付近を探し回って、結局思いもしないところで出会えた。
やっぱり聖子さんは涼しい顔をして「たこ焼き食べますか?」と
これまた思いもしない質問をして、たこ焼き屋へと姿を消した。

携帯電話がなくても人はいつか出会えるんだなと思う。
旅先で夫と仲違いして別の道を行っても不思議とどこかで会うことができるし
電車で会っただけの名前しか知らないイオアンとだって再び会うことができた。
今は機械に頼り過ぎて、人間らしい感覚が錆びついてしまったような気がする。

1年ぶりの再会。私の背をすっかり追い越した大樹くんの長身に驚いた。
初めて会った時は今の楽弥と同じ4才だったのに早いものでもう13才。
もの静かで聡明な青年に成長している。その大人びた大樹くんに楽弥が
「たいきにーちゃん!」と後を追ってどこまでもついて行き、離れない。

朝歌ちゃんも可愛いお姉さんになっていて、お喋りが楽しくて仕方ない希舟が
ひとりでぺらぺらと話し、時に変な踊りをするのを笑って相手をしてくれる。
赤ちゃんだった瑞生くんも表情豊かになり、澄んだ瞳で多くのことを語る。
みーちゃんの独特の間は、いつもみんなの笑い声に包まれる。
1才から13才までそれぞれの年齢の魅力があって愛おしい。

日が暮れるまで遊び、食事を作り、食卓を囲み、みんなで眠る。
束の間の大家族で、何でもない普段の生活がうんと賑やかになるのが嬉しい。
そしてルーマニアの生活のことや村のこと、友人の話を聞くと心が踊り出す。

聖子さんたちに会うとぼんやりと霞んでしまったルーマニアの感覚が思い起こされる。
素朴な話に心が温まるのと同時に彼の地の凍てつくような冷たい風のことも思い出す。
なんて生温い生活に身を置いているのだろうとはっとさせられる瞬間がいくつもある。
水がなければ汲み、車がなければ歩き、暑ければ川で泳ぎ、寒ければ火を焚く。
自然に寄り添った生活をしてきたはずなのに、それをすっかり置き去りにして
いつの間にか暮らすことに別段必要のないものが増えている。
必要なものは思っているよりも少ないと実感したはずなのに
いつからかその悟りが頭の隅に追いやられてしまっている。
このままでいいのだろうかとどこかで違和感がくすぶる。

楽しいひとときも束の間、早起きをして帰り支度をするみんなの姿に
淋しさを隠しきれない子供たち。子供たちだけでない、私も同じだ。
生温い空気が漂っていたところに、清々しい風が吹き込まれて
私の気持ちはルーマニアに飛んでいってしまっていた。

空港までお見送りをする車内、大きな飛行機を見てはしゃぐ子供たちの隣で
胸が締め付けられるような思いでいっぱいになっていた。
みんなが帰国してしまう淋しさと別のもどかしさがあった。
数年ぶりに訪れた空港の雑多で活気に満ちた雰囲気に触れて
すぐにでもルーマニアへと飛び立ちたいという衝動に駆られた。
「今、ルーマニア行きのチケットがあったら俺は何もかも捨てて飛行機に乗る」
同じ気持ちなのだろう、夫が放った言葉が胸に刺さる。聖子さんも続けた。
「みんなで一緒に旅立てたらどんなにいいでしょうね」

別れの淋しさからバイバイが言えなくなってしまった息子が足にまとわりつく。
楽弥の分まで固く握手をして「今度はルーマニアに会いに行くね」と伝える。
静かになった帰路の車内で心がきゅっとしぼんだが、やがてほどけていく。
先程の約束を反芻するうちに、子供たちが緑鮮やかなルーマニアの丘を
転がりながら駆け回る姿を思い描くと少しずつ心が軽くなっていった。
ひと夏の約束をきっと果たしたい。

text by : yuki

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折り紙の天の川


「ねぇ、折り紙ちょうだい」
「ねぇ、はさみちょうだい」
息子に言われるままに棚の上にあった折り紙とはさみを手渡した。
四才になり、少しずつはさみの使い方が上手になってきたものの
やはり見守っていないと手を切りそうで心配だ。
これでもかというほどに折り重ねて、分厚くなった紙の一番端を
ぎじきじ、ぎじぎじ、じょっきん。
切れた先端が部屋の隅に飛んでいった。
息子は笑って喜ぶが、私は指が飛んでいったのではとひやっとする。

ゆっくり折り紙を広げると、そこにはいびつな星が輝いていた。
保育園で七夕飾りを作ったようで、家でもやりたくなったらしい。
「がっくんにーに、すごーい、かっこいー」
妹に褒められて気を良くした息子は、次々と星を作っていく。
切る箇所や角度を間違えても、それはそれで素敵な模様ができる。
広げる度に小さな感動があり、あっという間に折り紙の山ができた。

子供たちが「さ〜さ〜のは〜さ〜らさら〜」と歌っていたので
私も一緒になって「まきばにゆれる〜」と歌うと
「えっ、ちがうよ、のきばだよ」と息子に訂正された。軒端なんだ。
彦星が牛飼いだからか、幼い頃から牧場だと思い込んでいた。
子供に教わることは多い。

ささのはさ〜らさら〜 のきばにゆれる〜
おほしさまき〜らきら〜 きんぎんすなご〜
ごしきのた〜んざく〜 わたしがかいた〜
おほしさまき〜らきら〜 そらからみてる〜

続きを歌う子供たちの隣で手が止まった。
幼い頃に耳にしていたはずなのに、初めて聞いたような気がした。
金銀砂子という歌詞もそうだけれど、風流な童謡の美しさに
子供といるとふと気付かされる。そして、そういう時は
なんだか心にじんと熱いものが広がっていく感覚がある。

そういえば、息子が短冊に願い事を書いて
「お星様に選んでもらえるかなぁ」
と呟きながら、部屋の片付けをここ数日頑張っていた。
どうやら、お星様が願い事を叶えてくれるかどうかは
自分の行い次第だと思い込んでいるらしい。
お星様に悪事が見つからないように慌てている姿もまた愛おしい。

折り紙の山を一枚ずつ繋げて壁に飾ると
まるで色とりどりの天の川のよう。
「わ〜きれい〜」「わ〜ちれい〜」
と子供たちは声を合わせて拍手している。
こうした日々の小さな喜びが星の瞬きのようだと
子供たちが大きくなったら感じるのかもしれない。
素敵な七夕の夜になりますように。

text by : yuki

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