二月二十九日で結婚して二十年になる。なんて早い。二十年前の私は閏日なんて気にすることなく生きていたが、今となっては四年に一度の結婚記念日となった。
十代から一緒に過ごし、お互いが二十二才になった年の閏日が休日でなおかつ大安だったので、このタイミングだと思って入籍した。日曜日は受理できる時間が決まっているからと職員に急かされて、半分電気の消えた町役場の誰かのデスクの上で慌てて婚姻届を書いた。住所や本籍や印鑑の種類をことごとく間違え、こんなにも訂正印だらけの婚姻届は初めてだと職員に笑われたが、薄暗い町役場で拍手をしてもらった。
それまでも一緒に暮らしていたので、生活が一変することはなかったが、彼女からひとつだけ頼まれていたことがあった。「結婚式は動物園で挙げたい」動物が好きな彼女は『てんとう虫のサンバ』で歌われているような、森の中の小さな教会で動物に囲まれて結婚式を挙げたいと言う。「なんて馬鹿馬鹿しい夢なんだ」そう言いながらも心の中では最高に面白そうだなと思っていた。
今ならインターネットですぐに調べられるが、当時はそんなことを知る術もなかったので、近所にあった小さな旅行代理店の扉を開いた。「結婚式ができる動物園はありますか?」「面白そうですね!」あるか、ないかではなく、私が感じたままの答えが返ってきた。その旅行代理店は、赤いペイズリー柄のバンダナを頭に巻いた小柄なおじいちゃんがひとりで経営していた。まん丸としたほっぺたはジャムおじさんを思わせる。正直なところ、ここでそんな式場を探すのは難しいかなという印象だった。
数日後、電話が鳴った。携帯の画面にジャムおじさんと表示されている。「オーストラリアにありましたよ!コアラを抱っこして結婚式を挙げられる動物園が!」ジャムおじさんはまるで自分のことのように盛り上がっている。「出発はいつにしましょう?せっかくなのでジューンブライドでいきますか!」ジャムおじさんのテンションは旅行代理店のそれではなく、もはや身内のそれなのである。もう後戻りなどできるはずもない。「そうしましょう!」その返答しか、私に残された選択肢はなかった。
六月の予定を妻に伝えると、飛んで喜んだ。大袈裟ではなく、子供のように飛んで喜んだ。すぐにアンティークショップにウェディングドレスを探しに行った。派手で豪華なものではなく、素朴でクラシックなものを探し回った。ちょうどフランスで買い付けたばかりだというドレスの山から、繊細な手編みのレースがあしらわれた百年前のドレスが見つかった。驚くほどぴったりのサイズだった。胸には偶然にもユキの“キ”のような刺繍が施されている。自分の名前が刺繍されていると、また飛んで喜んでいる。“キ”のドレスと金色のヴィンテージのスーツを持って、オーストラリアへ飛んだ。
それにしても袖から覗く腕時計がどうしても気になる。そんなものを身に付ける習慣などなかったのだが、ジャムおじさんが出発前日に結婚祝いとしてお揃いの腕時計をくれたのだ。鹿のキャラクターが二本の人差し指で時刻を表しているのだが、すでにずれている。電車や飛行機に乗り遅れそうになって、走りながら喧嘩が始まる。炊飯ジャーではこの時間だったとか、腕時計ではこの時間だったとか、どうしようもないことで…。婚姻届を出す時も、結婚式に向かう時も、大事な時はいつだって走っている気がする。センチメンタルとか、ロマンチックとか、そんなかけらもなく走っている。
ジャムおじさんが勝手に手配してくれていたリムジンで教会に向かう途中、神父の質問に英語で答えるようにと伝えられる。「イエス アイ ドゥ」何度その言葉を口にしただろう。「あなたはいかなる時も新婦を愛することを誓いますか?」日本語でいうところのそれを質問されていると思い込み繰り返す。「イエス アイ ドゥ」神父の誓いの言葉を復唱するように言われているのに「イエス アイ ドゥ」妻が笑いを堪えて肩を震わせている。それでも抱っこしているコアラはずっと眠っている。コアラは夜行性だったのだ。現地のカメラマンがコアラの肩を叩いて起こそうとするが、迷惑そうに一瞬目を開けるものの、またすぐにまどろんでしまう。繊細なレースなどお構いなしに、コアラの大きな黒い爪がウェディングドレスに食い込み“キ”が裂けていく。最後に友人が拵えてくれた木と金糸の指輪が二本の薬指に収まり、私たちは夫婦になった。
滅茶苦茶な結婚式だったけれど、思い出深い新婚旅行になった。島に渡って珊瑚礁の美しい海を泳いだり、気球に乗って上空からサバンナを飛び回るカンガルーを眺めたり、顔を白く塗ってアボリジニとブーメランを投げ合って遊んだり。その様子を二十年ぶりに観てみようと録画したビデオテープを引っ張り出してきた。埃を被ったビデオデッキを掃除してビデオテープを入れる。ビデオの映像を楽しみにじっと待つ子供たち。「ガシャガシャ」デッキの中を覗くと、くしゃくしゃになったテープが絡まっている。ふたりはがっかりしていたが、頭の中に楽しい思い出があればそれでいい。
「結婚おめでとう!」子供たちはまるで新婚のように乾杯してくれる。「パパとママが二十年も一緒にいるなんて奇跡だよ」とふたりは続ける。確かにわがままで自由奔放な私たちが二十年以上もひとつ屋根の下で暮らしているなんて奇跡なのかもしれない。今も十代の頃と何も変わらない。どれだけ喧嘩をしてもいつも最後には笑っている。今は子供たちも一緒になって笑っている。