男の帽子は猫の耳



真っ赤なルーマニアの布に遺影と題した男の刺繍を頼まれた。
ルーマニアの民家では壁一面に自慢の絵皿を飾り
その上に手織りの布を掛ける風習がある。
長さは様々だが、頼まれたその赤い布は妻の背丈ほどあった。

長い布に男の顔ひとつでは間が持たないと思いつつも
進めないことには...と男の帽子から針を刺していく。
これまで頼まれたものを刺繍したことがなかったので
緊張感からか、勢いが足りなくて線が固くなってしまう。
いつもの帽子がルーマニアの市場で買った帽子だとしたら
頼まれて刺した帽子はイギリスの老舗の帽子のような佇まい。
このまま刺していったら表情まで固くなってしまうと思い
帽子だけ刺繍したところで手が止まった。

「あっパパの帽子だ!」アトリエに来た息子がそう言うと
「えっ猫の耳だよ!」兄と違う答えを言いたがる娘が続く。
無邪気なふたりから着想を得て、その場ですぐに描きとめる。
男と猫とその間の生き物。

それから一日中赤い布と向き合う日々が始まった。
以前、制作した”黒けもの”も”黒ばけもの”も
一つの命について考えて生まれた物語だが
それを一枚の布で表現できると思ったら
針を持つ手が止まらなくなった。
頼んでもいない猫と何とも言えない生き物の刺繍があったら
依頼主が動揺するかもしれない...と思ったが
手を止めることはできなかった。

真っ赤な布に三つの黒い顔が浮かぶ。
いつも生成りの生地に刺していたからか
この刺繍が終わった時には心底ほっとした。
血のような赤い布をふた月もの間見続けることは
もの凄いエネルギーがいることだった。
それでも人間じみたルーマニアの人々と戯れているようで
彼の地が恋しくなった。

その布を三つに畳んで入れられる箱を探していると
古道具屋の友人がぴったりのガラスの箱を譲ってくれた。
その箱に入れる時には男と猫とその間の生き物の顔が重なる。
男の遺影の裏に二つの顔が隠れる。またその逆もある。
姿は違えど箱の中には一つの命が眠っている。
人間と動物に境界線はない。
男の帽子は猫の耳。



photo by : kentaro shibuya

text by : tetsuya

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ある男の記録その五



結果的に私は彼を追い出した。
酒がないと会話もできない彼を否定して
嘘ばかりつくようになった彼を否定して
模倣している彼の作品までもを否定した。
それは咄嗟に出た言葉ではなく、彼が泊まっている間
言おうか言わまいか、迷いに迷って選んだ結論だった。
それを言ったら何日もかけて三人で撮ってきた映像が
形にならないまま終わってしまうことも覚悟していた。

彼はどういうつもりか、家中に散りばめられた作品や
子供たちにあげたはずの玩具までもを車に運び始めた。
私にとって彼の作品はもうどうでもよかったが
楽弥と希舟の心底がっかりした顔を見たら
黙っていられなかった。
連日ずっと酒浸しだったので、もしかしたら
あげたことすら憶えていないのかもしれない。
それでも許せなかった。

たまたま家に来てくれていた友人たちがいなかったら
思わず殴りかかっていたかもしれない。
急に遊びに来てくれることになったのだが
きっと友人はすべて分かっていたのだと思う。
誰かがいないと私が自分を抑えきれないことも
その後ひとり罪悪感に苛まれることも...。
「もう帰ってくれ」と彼を追い出しても
友人はどちらを庇うでもなく、じっと見守ってくれた。
それぞれの生き方や考え方を理解してくれ
真夜中まで話に付き合ってくれた。
心につかえていたわだかまりが解けていく。
この時間があって本当に救われた。

冷蔵庫に紙パックの珈琲が縦に置かれて残されていた。
それが異常に空しく感じた。
もう冷蔵庫から珈琲が溢れ出ることはないのだろうか。
もう彼と会うことはないのだろうか。
夜空には綺麗な満月が浮かんでいた。

text by : tetsuya

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ある男の記録その四



ふと、彼が淹れてくれた珈琲を思い出していた。
今まで飲んだどんな珈琲よりも美味しかったし
きっとこれから先もあの味を超える珈琲には
出会うことはないような気がしている。
何年前だろう...彼が数ヶ月だけ営んだ喫茶店は
魔法がかけられたかのような異空間だった。
セメントが塗りたぐられた洞窟みたいな店には
古物と共に彼の作品が散りばめられていた。
注ぎ口が細く改造された琺瑯のポットと
手縫いの深いネルで淹れてくれた珈琲。
薄暗いカウンターで過ごした夜は忘れられない。

しかし、彼はもう珈琲すら淹れなくなった。
手動のミルや電動のミルやあの時目にしたネルも
道具は山ほど持って来たのに一度も淹れなかった。
もしかしたら淹れないのではなく
もう淹れられないのかもしれない。

そう感じたのは一緒に焼き肉を食べに行った時だ。
彼は肉を頼むことも、焼くことも、取ることも
ビールを注ぐことさえせずにただ食べ続けた。
そして皿やビールグラスが空くその度に
黙って私の目の前に掲げてくるのだった。
「がっくん...ビール頼んでもらえますか?」
と楽弥に注文させて、注がれるのを待っている。
彼は珈琲だけでなく何もできなくなってしまった。

何とも言えない情けない気持ちのまま家に帰ると
また冷蔵庫から珈琲が溢れ出ている。
紙パックの珈琲の口を開けたまま
寝かせて入れてしまったのだろう。
それは何年も前から彼が家に来る度に見る光景だ。
昔はこんなことでも笑えたが、もう笑えなかった。
もしかしたら、変わってしまったのは
彼ではなく、私の方なのかもしれない。
以前なら今日の焼き肉も楽しめたのかもしれない。
床にある茶色い水たまりを眺めながら
自問自答していた。

text by : tetsuya

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ある男の記録その三



私には身近に天才だと思う人がふたりいて
そのうちのひとりが彼だった。
それは芸術家として成功しているとか
作品が優れているとか...そういうことではない。
ふたりとも純粋で自分の心に正直に生きていて
自由な暮らしの中で自然に生まれる作品があり
会った時にはその種をそっと分けてくれて
言葉を使わずして気持ちを伝えられる。
彼はそんな男だった。

毎朝、早くから何かを作っている。
庭にはアルミの星屑を積んだトラックを先頭に
灰色に塗装された重機の玩具が五線譜の積み木を
空へと運んでいく舞台が日に日に作られていく。
玄関には夏目漱石の色褪せた小説が積み重ねられ
回廊に瓶詰めにした植物が幾つも置かれていく。
そして部屋のあちこちに歪んだガラスの白い額と
様々な色彩のタイルが無造作に並べられていく。

彼が純粋なのは間違いない。
しかし違和感を覚えるのは何故だろう。
それは彼が四六時中酔っているからではなく
作品に漂う空しさを感じたからなのかもしれない。
この感性は誰にも真似できないと思っていたのに
彼自身が自分の作品に諦めを感じている。
あれだけ美意識が高かったはずの男が
一から創造することをやめて
模倣ばかりしているのだ。
そればかりでなく、彼は嘘をつくようになった。

text by : tetsuya

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ある男の記録その二



「哲弥...タイミング逃しとるで」
十年ほど前、目下に海が見えたその瞬間に
缶ビールを開けると同時に彼はそう言った。
何故かずっとその言葉を憶えていて
今しかないその瞬間を意識するようになった。
明石海峡を眺めながらビールを飲んだり
芦屋の迎賓館のテラスで葉巻を吸ったり...
今この場所で何をしたら最高かを彼は知っていた。

到着した夜は楽しそうに夢を語った。
「とある銀河郵便夫の一日の出来事」
この短編映画を撮るために会いに来たと言う。
監督は妻の由希、主演は私、撮影は彼がやるらしい。
映画の話も急だし、そもそもどれだけ滞在するかも
聞いていないが、そこが彼の魅力なのは間違いない。
八十年前のチェコのモーターサイクルスーツや
五十年前の英国ラレーの自転車が家に運ばれて
冗談じゃないことを証明した。
「遊びやないで。本気やからな」
と言い残して明け方に眠った。

それが翌日から彼は酒に溺れた。
「哲弥...タイミング逃しとるで」
と言った昔の面影は微塵も感じられなかった。
朝からウォッカを呷る姿を可哀想に思ったし
もう素面では制作意欲が湧かないことを知った。
映画の撮影はしたが、彼は酔っぱらってフラフラ
手にしたカメラもブレブレでどうしようもなかった。
ただ撮影中の彼は幸せそうにずっと笑い転げていた。
家に帰ってから撮ったばかりの映像を確認するも
彼は撮影中のことを何ひとつ憶えていなかった。

text by : tetsuya

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