なるとの”の”

夏休み前に小学校で面談があった。「楽弥さんはひらがなの書き順がまだ正確ではないです。鏡文字になってしまうこともあります」宿題の束をめくりながら先生が淡々と話している。「そうなんです。ノートを逆さまにして文字を書くこともあるんです。ひらがなをひとつの形として捉えているみたいです」そう答えると、先生は言葉に詰まったような顔をして話題を変える。「でも図工はすごいんですよ。ピカイチです。絵も切り紙も夢中になって休み時間になってもやっているんです」

教室の後ろに切り紙がずらりと貼り出されている。名前を見ずとも遠目からあれが楽弥の作品だと分かる。いつだったか、保育園の廊下に貼り出された運動会の絵がどれも同じ構図のことがあった。きっと周りから影響を受けやすい時期なのだろう。楽弥の絵も似たり寄ったりで「みんなと同じ絵を描いて楽しい?」と訊いたことがある。楽弥は返事に困っていたが、家で描くのとは違う自分の絵を見て何かを感じているようだった。切り紙は濃い紺色の紙の上に幾何学模様に切った山吹色と薄紫色の紙が貼ってあった。その配色と複雑な模様は誰のものとも似ていない。上手い下手ではなくそれだけで安心する。自分の世界が素直に表現できていることに。

思い返せば、楽弥は小さな頃から工作が好きだった。大きなハサミを握ってよく切り紙も作っていた。百枚入りの折り紙が一日でなくなることもあった。切り紙には上も下も左も右もない。どこから見ても面白い模様に仕上がっている。一心不乱に紙を切り続けるその姿に感心していた。それがルーマニアから帰国した翌日から宿題を課せられるようになり、工作の時間はなくなってしまった。読んでいた絵本は教科書に変わり、握っていたハサミは鉛筆に変わった。ひらがなを文字ではなくひとつの形として認識するのも仕方がない。

三才の頃、初めて書いた”の”はなるとのようなぐるぐる模様だった。それから三年が経ち、渦巻き模様から徐々に文字らしくなってきたものの今も終点から逆に”の”と書いている。完成形は同じなのにひらがなには書き順というルールがある。これは自由に工作をしてきた子供にとって初めての制約であり試練なのかもしれない。本来なら親が教えるべきことなのだろうが、滅茶苦茶な書き順も鏡文字も愛おしく思えてしまう。それどころか「逆さまから書けるなんてすごいじゃん」と褒めてしまう。それは左右逆に靴を履く子供らしい光景をそのままにしておきたいと思うのと似ている。一度正してしまったらきっともう逆さまの世界には戻れない。

入学してすぐのこと。ロッカーに入れるランドセルの向きを注意された楽弥が帰り道に呟いた。「そんなの別にどっちでもいいじゃんね」「それは確かにどっちでもいいと思うよ」「パパも結構反対が好きだよね」「えっ?」「駐車場に車停める時もみんなと反対じゃん」「そうだね」「いつも下駄だし」確かに間違ってはいない。その会話をふと思い出して、面談の日に他の車に習って後ろ向き駐車をしてみた。すると「ボン」と鈍い音がして外に出る。そこにだけ突き出たうねる松の木に車の屋根が挟まっている。左右の白線を気にして後ろに下がったら上の木にぶつけたようだ。まぁそんなことはどうでもいい。罠にでも掛けられたような気分のまま急いで小学校へと向かう。

面談が終わって駐車場に戻ると、木に挟まった車を見て楽弥が体をよじらせて笑っている。「これわざとやったの?」わざとやる訳がない。何がそんなにも面白いのだろう。「パパならわざとやりそうだなぁ」とやけに楽しそうだ。やはり慣れないことをするものではない。自分のやりたいようにやらないとうまくいくものもうまくいかない。ひらがなも固く考えずに自由に書けばいい。工作の時間のように楽しんで書けばいい。

夏休み最後の夜、子供たちとラーメンを食べている。「あっ。きのの”の”だ」ピンク色の渦巻き模様を希舟が指差す。それを楽弥が箸ですくいあげて手の平に乗せる。そして確かめるように口を開く。「ねぇパパ。やっぱりこっちの”の”の方が格好いいよね?」私は黙って頷く。

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ふたりの少年



「この辺りにいるはずだよ。酸っぱい匂いがするでしょ」その言葉に楽弥が鼻をくんくんさせる。「ほんとだ。酸っぱい匂いがする」ヘッドライトで照らした木を一本一本確かめながらふたりは進んでいく。「がっくーん」「ひーくーん」後ろから希舟の呼ぶ声がする。

懐中電灯で希舟の顔を照らすと頬に四匹の蚊が止まっている。反射的に右頬を叩いてしまった。辺りは真っ暗。ずっと怖かったのだろう。緊張の糸が切れたように大声で泣き出した。「ママー」と泣き叫ぶがママはいない。手を繋ごうとすると希舟の左手にはカナブンが握られていた。

数日前に手の平に乗せたカブトムシの写真が届いた。虫を獲りに行こうと前川さんに誘われたのだ。昆虫が大好きな楽弥は大喜びして、希舟もそれにつられて「きっきぃも行く」となった。きっと庭でバッタを捕まえるくらいの軽い気持ちだったのだろう。それが蓋を開けてみたら街灯もない暗い森ときた。四才の女の子が泣くのも無理はない。

匂いを頼りに樹液が出ている木を見つけた。「ほら。いた。ここはカブトムシにとっては格好の場所なんだよ。ちょうど身を隠せるようになっているでしょ」と嬉しそうに話す昆虫博士と逃すまいと夢中で捕まえる楽弥。鼻を利かせて歩いているうちに虫かごは賑やかになっていった。

暗闇の中でランタンを灯して夕食を摂る。食事を前にして急に元気になった希舟の小さな手が大きなおにぎりに伸びる。「希舟ちゃんのおにぎりは何が入ってるかな?」と前川さんが訊く。もぐもぐしながら「お肉」と希舟が答える。肉は入っていないだろうと思って口にすると本当に肉だ。前川さんが焼き鳥やつくねを入れて握ってきてくれたのだ。さすが大人の姿をした子供である。子供心をよく分かっている。希舟は左手におにぎり、右手にぶどうを持って幸せそうに頬張っている。「ひーくんのお肉おにぎり美味しい」と弁当箱はあっという間に空っぽになった。食べ終えるなり楽弥は捕まえたばかりのノコギリクワガタを見て「こうなってるのが格好いいよね」と頭の上に両手で弧を描いている。それに負けじと昆虫博士も「こうだもんね」と頭の上により大きな弧を描く。ふたりの少年の目が輝いている。

虫なら何でも喜ぶと思った私は見つけた虫を楽弥の虫かごに入れた。すると楽弥がその虫を必死に逃がそうしている。「どうした?」と訊くと「この虫は臭いからいらない」と答える。前川さんが「よく知ってるね。その虫は臭いんだよ」と続く。私が捕まえた臭い虫が虫かごから落ちた途端に楽弥が踏み潰そうとした。その瞬間に「殺すことはないだろう」と前川さんの声が森に響く。恥ずかしくなったのか楽弥は笑ってごまかしている。小さな虫でも懸命に生きていることを痛感した。どんな虫を見つけても昆虫博士がその虫の特徴を教えてくれる。まるでこの世の生きものすべてに意味があるというように。図鑑を見ているだけでは感じられないことがある。「もっと探そうよ」と虫かごがいっぱいになっても楽弥の興奮は冷めやらない。最後にミヤマカミキリを見つけて虫捕りは終わった。

家に帰ると千恵さんと愛犬のニハルが待っていた。何よりも先に楽弥は昆虫博士にもらったおがくずと腐葉土を虫かごに入れている。それを希舟とニハルが仲良く階段に腰掛けて見守っている。前川さんの像刻を前に私の頭は混乱する。さっきまで楽しそうに虫捕りをして、暗闇の中でおにぎりを食べていた大きな少年。その手から生まれた美しい像刻が静かに私を見つめている。まったくの別世界のようにも感じるが、やはり前川さんの純粋さが作品に投影されている。千恵さんが虫かごを見て「すごいね。初めて来た時はバッタもなかなか捕まえられなかったのに」と褒めてくれる。確かに楽弥は前川家で随分と成長させてもらっている。そして次は標本を作ろうと約束をして別れた。

帰り道に私は森に落ちていたフクロウの羽根を帽子に挿した。楽弥は飽きずに虫かごを覗いている。疲れて眠ってしまった希舟の右頬には四つの赤い勲章が残っていた。



photo by : chie maekawa

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拝啓JPWiMAX

ルーマニアから帰国してアトリエにインターネットを繋ぐために、これまで利用していた会社に回線工事を頼んだが、四月は混んでいてふた月ほど時間が掛かるという。さすがにそれでは遅過ぎると思い、ルーターを即日発送してくれるJPWiMAXという会社に申し込む。これなら持ち運びができて家でも仕事ができる。

それがいくら経っても届かないのだ。しびれを切らして連絡をすると「四月中の発送は難しいです。五月の連休明けになります」とのことで待っていたのだが、届かない。再び連絡をすると「五月中の発送は難しいです。六月になります」とのことで気長に待っていたのだが、一向に届かない。

毎日メールの返信のためにWiFiの繋がるカフェに通うことになった。あまりにもコーヒーが苦いからカフェラテを注文する。いや、もう注文しなくても「カフェラテですよね。お好きなんですね」と店員が顔を憶えてくれている。同じ時間に同じ席に座り、同じタイミングでブラインドを下ろすと「今日も下げてもらいありがとうございます」と同じ言葉を掛けられる。おまけに試食を勧められ、その感想を求められる。

帽子にツナギに下駄。こんなに通うつもりじゃなかったので、人目も気にせずにずっと同じ格好だったのだが「今日も素敵なお帽子ですね」なんて店員に言われると帰りたくなる。それでも今日で最後だろうと言い聞かせて下駄を鳴らして通い続けた。

誰のせいでもないがカフェラテが嫌いになった。言うなればカフェも嫌いになった。パソコンもインターネットも嫌いになった。もしかしたらこれはJPWiMAXから私へのメッセージなのかもしれない。「インターネットに使う時間があるなら刺繍に使いなさい」人間が生きていくうえでパソコンなんて必要ない。人間には限られた時間しかないのだから作品を残したい。ありがとうJPWiMAX。さようならJPWiMAX。

敬具

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リョウジのリョウリ

「その膝どうしたの?」と妻が訊く。「渋谷さんの力が足りなくて落っこちた」と膝から流血した楽弥が苦々しく答える。

真夜中に散歩に出掛けた楽弥の小さな手は友人ふたりの大きな手と繋がっていた。私は彼らの一歩後ろを歩いている。友人の力を借りて「いちっにのっさんっ」で飛び跳ねると同時に片方の手が離れる。地面に向かって楽弥の体が斜めに落ちていく。相当痛かったのだろう、悶絶している楽弥を「おいっ大丈夫か?」と潤ちゃんが気遣う。

「渋谷さん心配したでしょう」と妻が続ける。「全然」と楽弥が答える。「えっ。渋谷さん何してたの?」「星見てた」「嘘でしょ」「本当にこうやって星見てた」と楽弥は腰に手を当て夜空を見上げる仕草をした。確かにひとり夜空を見上げていたような気がする。

散歩から戻ると、料理をしない岩井さんが何故か料理について語っている。「俺が料理したら道具も食材も全部こだわっちゃうから駄目。でも味覚だけは天才かもしれない。いや本当に。小学校の時の授業で料理したら上手すぎて。それからみんなにリョウリって呼ばれてたの」楽弥を落とした渋谷さんが名誉挽回とばかりに口を開く「リョウジだけにね」。潤ちゃんが「そういうことか」と妙に納得している。

そこからリョウリことリョウジの肉汁の出ないハンバーグ論が始まる。「肉汁が旨いんじゃないの?」と口を挟む潤ちゃんに「違うの潤ちゃん。本当のハンバーグは旨みを閉じ込めるの」と返すリョウリ。そもそもハンバーグをどう作るかという話ではなく、どう作ってもらうかという話をしている時点で違うような気もする。そこにパン屋を営む謂わばプロの克ちゃんが「パテが好きってこと?」と至極真っ当な質問をするも誰ひとり聞いていない。渋谷さんはそんなことよりも「リョウジのリョウリね」と随分とその語呂が気に入った様子だ。ハンバーグの夢でも見ているのか、私の足下で眠ってしまった希舟は口をパクパクさせている。

ハンバーグ論は未明まで続いた。「俺は色んな大人に育ててもらったから楽弥にも色んなことを教えてやりたいの」と岩井さんは常々語っている。きっと今宵もハンバーグだけでなく、人間の本質を教わったはずだ。大人とはこんなにも馬鹿で楽しいものだと。

私は腰に手を当て夜空を見上げる。そして先程までハンバーグ論を繰り広げていた男が幼い頃のトラウマから肉が食えないことを思い出していた。

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忘れた目玉

電話が鳴る。「こっちは最高の季節だよ。遊びに来ない?」「今から行くよ」雨降りの金曜日、何気ない会話だが距離がある。ここから長野まで300キロ。車で4時間はかかる。すぐに保育園と小学校に子供たちを迎えに行き、そのまま長野へと向かう。

暗闇のなか明かりが灯っている一軒の家。白猫のおもち、黒犬のあんこ、あんこに目玉を食べられたBOOと友人家族が迎えてくれた。そのBOOの目玉を直すという名目で遊びに来たのに、肝心の目玉を忘れて来てしまった。無性に彼らに会いたくなり、着の身着のまま慌てて出発したのだ。他の日でもよかったのかもしれないが、生まれたばかりの赤ちゃんの寝顔を見て、今このタイミングで来て良かったと思った。

ちかちゃんと初めて会った時、いろははまだ自転車の補助席に乗っていた。それから傘屋を始めて、ひとりふたりと家族が増えて、住まいも移り変わり、いろはは中学生になった。ひとつだけ変わらないのはいつ会っても魅力的な家族だということ。

鶏の鳴き声で目を覚ます。昨夜は暗闇で何も見えなかったが、見渡す限り緑の木々が揺れている。雨音だと思っていたのは、庭を流れる川の音。湿った植物の匂いがする。あまりの清々しさに茫然としてしまう。「空気が美味しいね」と妻が言うと、楽弥は口を開けてぱくっと食べて「ほんとだ。美味しい」と目を丸くした。おもちを追い掛ける希舟とあんこの散歩に出掛ける楽弥。ふたりで木のブランコに座り自然を満喫している。

産まれたばかりの鶏の卵で目玉焼きを作り、ビワの葉でお茶を淹れ、庭で摘んだフキやヨモギを天ぷらにして食べる。なんて豊かな時間なのだろう。山の麓や湖の畔を散歩して、ご飯を食べて、お風呂に入り、眠る。日が暮れて、夜が明けて。それが何よりも幸せに感じられる。温泉に誘われても、蕎麦屋に誘われても出掛けたくなかった。この家にいるだけで満足していた。

雨上がりの帰り道、ちかちゃんが「貝戸家もここに住んだらいいのに」と言っていたのを思い出す。離れていても心の近い友人の言葉はそれもなかなか面白いかもしれないと思わせてくれる。ゆうくんが持たせてくれた卵が助手席で揺れる度に心も揺らぐ。夕空にうっすらと浮かんでいた白い満月はいつの間にか金色に輝いていた。

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