Finale

成田空港へ向かう飛行機の中、どこか憂鬱だった。帰国日が近づくにつれ、楽弥は「あと何日旅できる?」と訊いてくるし、希舟は「もう旅終わっちゃうんだ」と淋しそうに呟くから、より帰国することへの抵抗が増していたのかもしれない。

それでも頭の中には楽しい旅の思い出がいっぱい詰まっている。真っ先に思い浮かぶのはやはりシク村で過ごした日々のこと。どこを旅していてもあの家に戻りたくなる。

シク村最後の夜はふたりのマールトンと一緒に過ごした。マールトンの家に入るなり、獣マールトンは楽弥の靴下が臭すぎると鼻をつまみ、無理矢理脱がせて外に投げ捨てた。寒いからと代わりに持ってきたマールトンの靴下は左右違う上に穴だらけで、それも外へと投げ捨てられた。彼らの面白さに言葉なんて必要ない。むしろ無声映画にして客観的に観てみたい。

マールトンはいつも酔っ払っていて滅茶苦茶だが、心の綺麗な人間だ。初めて会った大雪の日も凍えそうな私たちを家に招いて温かい食事を用意してくれた。お金がある時には浮かれてビールやパーリンカを買ってきて、子供たちにお小遣いをあげるが、その翌日には煙草一本も買えないほど無一文になっている。自分のパン代も足りないのに子供たちにお菓子を買ってきてくれたこともあった。その日暮らしのマールトンと過ごした時間はくだらないことばかりなのに、それでも旅を振り返ると何よりもその時間が楽しかったのだと気付く。

いつもふざけたふたりだけれど、最後にマールトンが目に涙を浮かべながらグラスいっぱいにパーリンカを注いでくれたこと、獣マールトンが亡き母親の織物をお土産に持たせてくれたことは忘れられない。

翌日は早朝のバスでゲルラーに向かった。ハンガリー行きの列車まで時間があったので、レストランで朝食をとることにした。ルーマニア最後の食事を楽しもうと金額を気にせずにそれぞれ好きなものを注文して、ビールとコーラで乾杯した。

お腹を満たして支払いをしようとするとウェイトレスが「そこに座っていた方が済ませてくれたから大丈夫よ」と言う。一瞬どういうことか分からなかったが「どうしてこんなに良くしてくれるんだろう」と妻が涙を拭いているのを見て、見ず知らずの人が何も伝えずに私たちのテーブルの支払いをしてくれたのだと理解した。

その後も驚く私たちのところに他のお客さんが次々とやってきて、子供たちにお小遣いを握らせてくれた。彼らの無償の優しさはどこからくるのだろう。

駅へと向かう途中にパン屋へ寄ると、そこでも色々な人が色々なパンを買ってくれた。そして駅の待合室でも色々な人に色々なお菓子をもらい、お腹も荷物もいっぱいになっていた。最後に使おうと思っていたルーマニアのお金は減ることなくそのまま手元に残った。この恩をどう返したらいいのだろう。子供たちは愛を込めてゲルラーのことをお菓子の町と呼んでいる。

この旅はたくさんの人に助けられた。最初は友人が持たせてくれたこけしを売ったり、物々交換をしながら旅をしていた。道行く人に突然お菓子を貰ったり、食事をご馳走になることもあった。ジプシーからもらった濁った蒸留酒も喜んで呑んだし、食べかけのアイスクリームも迷いながらも舐めた。獣マールトンが「メイビーピッグ」と言って持ってきた肉の塊も怪しいと思いつつかぶりついた。それから三週間は高熱と酷い頭痛に悩まされたが、それでもルーマニアにいるだけで幸せだった。

ルーマニアという国はもちろん、ルーマニアで暮らすルーマニア人もハンガリー人もジプシーもみんな好きだ。ルーマニアは愛に満ち溢れている。少なくとも私の目にはそう映る。

五才と三才だった子供たちは思いの外たくましかった。シク村の家では水道やガスがない生活だったが、水汲みや薪割りを楽しんでいたし、電気が使えなくなっても蝋燭を灯して過ごす夜にはしゃいでいた。

朝から晩まで家族でずっと一緒に過ごすことは日本ではほとんどなかったから、いつもよりも怒ったし、喧嘩もよくした。それでも生きる上で本当に大事なことを感じてくれたと思う。旅に出たことで子供たちがこれからどんな状況においても、その状況を楽しめるような人間になってくれたら嬉しい。

これから仕事を始めれば子供たちと会う時間はまた少なくなる。ふたりが小さいうちに再び家族で旅に出るために、この旅を糧にして制作に打ち込みたい。

素敵な家を貸してくれた友人、シク村まで遊びに来てくれた友人、大量の荷物を預かってくれた友人、旅で出会ったすべての人と共に旅をしてくれた家族に感謝したい。

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