祝祭という名の映画

「ねぇイメージと全然違うんだけど」「何だよイメージって」「目のまわりをもっと黒くしたいの」「じゃあどれにするんだよ」キッスのレコードを息子に手渡す。おそらく誰もが一度は目にしたことのある白塗りの化粧をした四人の男の顔が並んだデビューアルバム。「これハロウィンと関係なくね?」「組み合わせてもいいから選べって」「じゃあもうこれでいいよ」ジーン・シモンズを指差す。「いいじゃん。目もコウモリみたいだし最高だよ」楽弥の顔に黒の顔料をのせていく。親切丁寧に。「やっぱりふざけると思った」息子が怒っている。良かれと思ってほっぺたにピーター・クリスの猫の髭を組み合わせてしまったのが原因だろうか。自分で化粧を落とそうとするも顔料がのびて顔全体が真っ黒になっていく。話は戻るが、彼はドラキュラになりたがっていたのだ。

ハロウィンの夜は八人の小さなおばけが家の中を走り回っていた。猫のねずみはおばけに追いかけられて逃げ回っていた。そんな夜が三日続いた。日を追うごとに楽弥の仮装は完成度を増していく。黒いマントに似合う服を自分で選び、鏡に向かって自分で化粧をしている。もはやキッスでもドラキュラでもない。深い森の中で暮らす先住民のように黒の顔料を顔に塗りたぐっている。何かが憑依する。きぃーきぃーと人間を威嚇するかのような高い声で鳴き始める。高い所によじ登ってみたり、階段から飛び降りてみたり、落ち着かない。そして料理が出るなり、獣のような鋭い目つきで夢中で肉を頬張っている。いつもと違う兄の姿にテントウムシの赤い羽を付けた希舟も唖然としている。

祝祭。その感覚を思い出していた。これまで仮装する祭りを目的に様々な国を旅してきた。宿や交通手段のない小さな村でも祭りのために野宿とヒッチハイクを繰り返した。何故これほどまでに祭りに惹かれるのか考えたこともなかったが、何かに憑依した人間に魅力を感じるのかもしれない。毛皮や衣装には人間の内面をも変える魔力がある。獣に扮した人、聖人に扮した人、悪魔に扮した人、花婿と花嫁に扮した人々。ふと目の前の現実を映画のように感じる瞬間がある。私はその一瞬を求めているのかもしれない。

仮装した子供たちを横目に酒を呑む。どの役者も小さいのに本当に演技がうまい。大人も本当に酔っ払っているみたいに演技がうまい。もちろんそれは現実だから演技ではないのだけれど、視点が変わるとそう見えることがある。子供たちが騒ぐタイミング、妻が料理を出すタイミング、友人が煙草に誘うタイミング、ビールグラスが割れるタイミング、すべて完璧。わざとらしさは微塵も感じられない。みんなで食卓を囲む風景もなかなか画になっている。散らかってはいるがセットはこれくらい自然がちょうどいい。それにしても映画は終わらない。かぁーかぁーと男が鳴いている。俺はカラスと会話ができると男が鳴いている。またひとつ空瓶が増えていく。またひとつ夜が明けていく。

誰もいなくなった時に映画は終わる。冷蔵庫には大量の肉とビールが残されている。庭には雨に濡れた黒い物体が落ちている。八角形の黒い箱型の物体。真ん中には人間を吸い込んでしまいそうな不気味な穴が空いている。夜は暗くて見えなかったが、友人は子供たちにこんなことを話していた。「あれは時空を超えられる装置なんだよね。簡単に言うとタイムマシンみたいなものかな。あれに乗れば一瞬で東京に帰れるよ。穴に手を入れるとレコードも出てくるんだよね」また訳の分からないことを話していると聞き流していたが、玄関に見覚えのないレコードが残されていた。家族にそれぞれ一枚ずつ。

その中の一枚に針を落とす。ミニー・リパートンのラヴィン・ユー。遠い国の小鳥の囀りが聴こえてくる。冬の気配を感じながら煙草に火をつける。まだ酔っているのか、何とも言えない幸福感。私は今どこにいるのだろう。どこか遠い国にいるのかな。空想は現実の断片で作られていく。イメージがあれば時空は簡単に超えられる。小鳥の囀りを記憶の風景と重ねながらレコードのジャケットを裏返す。一九七四年。奇しくもキッスのデビューアルバムと同じ年。頭の中で悪魔の化粧をしたジーン・シモンズがデュースを歌い始める。不協和音。小鳥が飛んでいく。空はどこまでも続いている。国境なんて簡単に越えていく。目の前にはタイムマシン。タイムマシンの前に立ち尽くす妻。黒い顔のまま死んだように眠っている子供たち。私はまだ映画の中にいるのかもしれない。

photo by : kentaro shibuya

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少年と河童と古物商

「くれぐれも河童だけには気をつけるんだよ」少年は外に出る度に祖母からそう言われていた。毎日、毎日耳が痛くなるほど同じことを言われ続けて、少年はいい加減うんざりしていた。「河童、河童うるせえな」それでも祖母は続けた。「河童に足を引っ張られるんじゃないよ」そんな祖母を茶化して少年はこう返す。「ばあちゃんもあの世に引っ張られるんじゃないよ」祖母はまさかそれが少年の最後の言葉になるとは思ってもみなかった。「もう帰ってくるな。沼で河童とでも遊んでろ」そして少年もこれが祖母の最後の言葉になるとは思ってもみなかった。

その言葉通り、その日から少年は家に帰らず河童と遊び続けた。祖母の言葉は間違っていた。河童は足なんて引っ張らなかった。それどころか沼に沈みかけていた少年の手を引っ張り助けてくれた。そしてそのまま手を繋いで踊った。沼の中で泥だらけになって踊り続けた。河童と手を繋いでいると沼が沼でないかのように感じられた。さっきまで沈みかけていた足にヒレでもついたかのように体が軽くなり浮いていく。そうか、自由というのは自由を奪われて、束縛から解放される時に初めて感じることができるんだ。それまで自由気ままに生きてきた少年はそんなことを考えていた。日が沈むまで踊り狂い、町が暗闇に包まれると畑から胡瓜をかっぱらい、月明かりの下で緑色の胡瓜を夢中になって頬張った。少年は小学校に行くこともなくなり言葉も文字も忘れていった。沼の中でそんなものは何ひとつ必要なかった。

四十年後、祖母との会話を最後に行方不明となっていた少年は人間をやめて河童として暮らしていた。頭に白磁の皿を乗せて、手作りの舟を沼に浮かべていた。気が向いた時にだけ沼から上がり、舟いっぱいに古物を並べて、人間相手に商売を始める。名はないが、人間からは河童商会と呼ばれている。ゴミもアートも関係ない。彼なりの審美眼で河童に関する古物をひたすら集めてきた。一日ひとつ何か拾う、それが彼が彼自身に課したノルマだった。店主が河童なのだから人間が大事にしている金は一切通用しない。通貨は胡瓜、それのみ。河童商会で私は胡瓜三百五十本で河童の皿を買い、娘は胡瓜七十本で河童の陶の面を買った。そして息子は食べかけの胡瓜一本で河童の張り子の面を買った。他にも狙っているものはたくさんある。河童の目玉の方位磁石に、河童の奥歯のサイコロ。それに河童の頭蓋骨のカトラリーに、河童の前髪の歯ブラシ。胡瓜さえあればぜんぶ欲しいのが本音だが、私にも守らなければいけない生活というものがある。

おっと、大事なことをひとつ伝え忘れていた。四十年前、少年と出会った私は河童をやめて人間として暮らしている。足のヒレふたつと頭の皿一枚を譲ったお礼にと言葉も文字も少年がぜんぶ教えてくれた。だから困ることは何ひとつない。運よく河童に理解ある人間とも結婚できた。ただ想像してもらえれば分かると思うがふたりの子供はどうしても河童っぽい。でもそれも子供の個性を育てるとだかの教育方針のおかげで大して問題にはなっていない。仕事は沼の清掃員。私も人のことは言えないが、同僚は誰ひとりとして個性がない。時給八百三十円。胡瓜でいうと八本ちょっとといったところだろうか。これといって不満はない。他に楽な仕事はいくらだってあるが、正直言うとやっぱり沼が恋しいんだ。沼に捨てられたゴミを拾い、その給料で胡瓜を買って家族四人細々と暮らしている。そして胡瓜に余裕がある時は河童商会へ行き買い物をするって訳さ。

まだあの世に引っ張られないでいる少年の祖母は私を孫だと勘違いして喜んでいる。私もいちいち余計な説明はしない。黙っていた方がいいことだってある。そしてひ孫が外に出る度に祖母は同じことを口にする。「くれぐれも河童だけには気をつけるんだよ」

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動物たちの宴の夜

今宵も夕食の匂いを嗅ぎ付けて森の動物たちが動き出す。

「ごめんよ。いつも急に来ちゃって」鉄の塊にまたがりやって来たのはガソリンまみれの熊のリョウちゃん。「ペコちゃんのほっぺ食っちまおうぜ」馬にまたがりやって来たのはクリームまみれのゴリラの潤ちゃん。「ヒヒーン。ヒヒーン。お久しぶりです」背中にゴリラを乗せてやって来たのは泥まみれの馬のケンちゃん。「こんパンは」バゲットにまたがりやって来たのはパンくずまみれのヒヨコの克ちゃん。

彼らの話をまとめると、雨の競馬場から逃げて来た馬のケンちゃんは、スクラップ工場で鉄の塊を揺らしていた熊のリョウちゃんに出会い意気投合したらしい。時を同じくして、不二家で暴れていたゴリラの潤ちゃんは、おこぼれを貰おうとひょこひょこ付いて来たヒヨコの克ちゃんに出会い正気を取り戻したという。利根川の土手で合流した四匹の動物たちは八つの鼻の穴を駆使してこの家に辿り着いたそうだ。

「元気っていう名前なのに元気のない人間がいて頭にきちゃったよ。やっぱり元気には元気だしてもらいたいじゃん。元気がなけば何にもできないよ」どこかで聞いたことのあるような台詞だが、赤いバンダナを首に巻いた熊はいつも元気いっぱい。「馬鹿じゃね。ほっぺじゃねぇじゃん。人間のほっぺはもっともちもちしてんだろ。しかし非常にうまい」ゴリラはペコちゃんのほっぺで頭がいっぱい。「ぴよぴよ。ぴよぴよ」ゴリラがこぼしたパンくずをヒヨコがつついている。「ヴヴーン。ヴヴーン」ゴリラに乗られてさぞかし疲れたのだろう、回廊から馬のいびきが聞こえてくる。

今宵も話が噛み合わない。それぞれ言語が違うのか、話が交錯しているうちに夜はだんだん明けてくる。人間が眠っているうちに森に帰ろうと酔っ払った動物たちは慌てている。慌てているが帰らない。帰らないどころかもう一杯。もう一杯呑んで笑っている。

帰り道。道に迷ったリョウちゃんはどういう訳か人間が作り上げた「人より目立つな。人より劣るな」そんな下らない思想を刷り込まれている。虫歯になった潤ちゃんはクリームを食べても虫歯にならない歯を作っている。偶然にもパン工場を見つけた克ちゃんは勝手に厨房に入り込み卵の殻を頭に乗せたままパンを焼いている。喉が渇いて朦朧としていたケンちゃんはあろうことか現像液を飲んでしまい今もなお暗室に倒れている。

今宵も森のどこかで動物たちが鼻をくんくんさせている。

photo by : kino

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ピカソとビュフェ

「これ置いてくで」きっかけは十五年前に友人が家に置いていったフランソワーズ・サガンの『毒』という一冊の本だった。今から五十年ほど前にフランスで印刷されたその本は、モルヒネ中毒に苦しむサガンの九日間の記録に、ビュフェのイラストレーションとカリグラフィーが添えてある。すぐに心惹かれていつかビュフェの絵を見たいと思うようになっていた。ずっと心の片隅にそんな想いを抱きながらも時が経ち、今かもしれないと思い立ってベルナール・ビュフェ美術館へ足を運ぶことにした。

寄り道をしているうちに日は暮れて美術館は明日にすることになった。夜の海岸沿いを走っていると無性に花火がやりたくなり、目に付く店に手当たり次第に寄ってみるが、どこにも売っていない。毎週のように海に出掛けていたからまだ夏の気分だったが、もう夏は終わったのか。今年は打ち上げ花火を見ていない。これまで打ち上げ花火を見なかった夏なんて一度もない。だから夏が終わった気がしないのか。それにしても花火が見つからない。仕方がないから海だけでも見ようということになった。

しかしバイパス道路が邪魔をして海岸に出られない。地元の人に尋ねると来た道を少し戻ると道路をくぐれると言う。進行方向にも海岸に出られるところがあるか尋ねると苦い顔をした。「向こうはやめた方がいいかもしれません。ヤクザの事務所があるので」

ヤクザという言葉を聞いて楽弥と希舟が神妙な面持ちになっている。楽弥が不安そうに訊いてくる。「ヤクザって怖い?」「怖い人ばかりじゃないよ。優しい人もいるんじゃない」「でも鉄砲は持ってるでしょ?」「鉄砲くらいは持ってるかもね」「撃ってくるかな?」「悪いことしなければ撃たれないよ」その言葉を聞いて何故か希舟が兄を心配し始める。「がっくん撃たれちゃうかも」「きっきぃ黙ってて」楽弥が慌てて妹の口を抑える。騒がしかった車内が一気に静まり返る。

子供たちがあまりにも心配するので事務所のない海へ繰り出す。嬉しさ余って階段を駆け下りた楽弥が振り返る。「なんか怖いね」そう呟いて暗闇を指差す。「ほら海と空がつながってるよ。このままブラックホールに吸い込まれちゃいそう」確かに灯りひとつなく海も空も真っ黒で水平線が見えない。どうにか足下の砂浜は見えるが、その砂浜が海に向かって斜面になっていて本当に吸い込まれてしまいそうな雰囲気だ。そこに幻想のように白く浮かび上がっては消える波が砂嵐のような音を立てている。「もう帰ろうよ」希舟が足にしがみついて後ずさりしている。

「あっ。びっくりした」楽弥が声を上げる。「なんだ。しゃてきか」海を諦めて車を走らせていると射的の鉄砲がクロスにふたつ飾られていた。それをヤクザの鉄砲だと勘違いしたらしい。希舟はヤクザという言葉が出る度に両手で耳を塞いでいる。「何これ。湯婆婆が出てきそう」妻がそう言うように千と千尋の神隠しに出てくるような温泉郷に辿り着いた。深夜だからか水浴びをするカモはいるが人間は誰ひとりとして歩いていない。下水溝からもくもくと上がる白い湯気が不思議な夢の中に入り込んでしまったような気分にさせる。そのまま石畳を流れる小川のせせらぎを聞きながら眠ることにした。

せっかくなので早朝に温泉に入り、近くにある彫刻の森美術館へ行くことにした。目的はひとつ。ピカソの絵皿。何よりもそれが見たかった。入館するなり一直線にそこへと急ぐ。ピカソの陶芸から感じることは山ほどあるが、頭は使わない。難しいことは考えずに純粋に心で感じる。六十五歳から始めた陶芸はピカソにとって楽しくて仕方なかったに違いない。見ているだけでこんなにも幸せな気持ちにさせてくれるのだから。「子供らしい絵を描くのに一生かかった」そう語るピカソの言葉と愉快な顔が描かれた絵皿は頭の中に蓄積された余計なものを洗い流してくれる。少し寄るつもりが、子供たちと緑の中を駆け回っているうちにいつの間にか閉館の時間になっていた。

明日こそはビュフェを見に行こう。ビュフェの待つ町へと車を走らせる。山道を左右に揺れながら下山して湖に佇む海賊船を眺めて三十キロほど走っただろうか。「あれ?」妻がそんな声を出した。何かやらかした時の声。「荷物忘れた」彫刻の森美術館に入館する前に車内は熱くなるからとコインロッカーに荷物を預けたらしい。中にはお土産に買った地ビールや温泉まんじゅうが詰まっている。ベルナール・ビュフェ美術館はもう目と鼻の先だというのに来た道を戻るしかない。妻はコインロッカーの鍵を握りしめてうつむいている。うつむくのも無理はない。早朝にも温泉で同じことをしているのだ。

誰もいない真っ暗な美術館で荷物を取り、湖沿いに走っているとネオンサインの光るレストランを見つけた。閉店時間をまわっていたが、快く通してくれた。東欧にある場末の食堂のような外観もうらぶれた殺風景な内装も蝶ネクタイを締めた年配のウェイターもそれらを覆す本格的な味も最高だった。日本で一番好きなレストランができた。店を出て道を進むと夜景が綺麗な高台を見つけた。路肩に車を停めて町を見下ろしたその時だった。「パーン」打ち上げ花火が上がった。「パーン」「パーン」色とりどりの花火が次から次へと上がる。思わぬ光景に二度も荷物を忘れてくれた妻に心から感謝した。

翌日は本来の目的であるベルナール・ビュフェ美術館を堪能した。独特な黒の線描と限られた色彩で描かれた華奢な自画像やどこか淋しさが漂う静物画。戦後の混乱が残るパリで描かれた初期の作品に胸を打たれる。貧しさや孤独や不安による虚無感に苛まれていたであろう当時の人々の感情が思い起こされる。「絵を描くことしか知らない」そう語るビュフェが五十年余り描き続けた絵は時代と共に変化していくが、ビュフェの描く線はいつの時代もビュフェの線に変わりない。希舟が美術館の端っこで模写している。十字架の教会を直線で描いている。楽弥はピカソの絵皿に影響を受けたのか、丸の中に口髭を生やした男の顔を描いている。模写するのもいい。影響を受けるのもいい。その線が自分の線であればそれでいい。描きたくなければ描かなくてもいい。ビュフェでもピカソでも誰でもいい。ひとつでも心に響くものがあればそれでいい。

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お魚つれたかな?

東の果ての果てにある港町。ここは太陽が一番にのぼるんだって。みんなは魚臭いなんて言うけれど私は全然臭くない。毎日スケボーで漁港を滑っているから鼻がおかしくなったのかしら。それより私は忙しいの。水平線がどこまで続いているのかこの目で確かめなくちゃいけないの。

あらお腹が空いちゃった。ブルーベリー畑に寄ってみよう。ブルーベリーおじさんはインディゴのエプロンをしているの。それにしても海みたいに綺麗な色だわ。あのエプロン一回も洗ったことがないなんて本当かしら。みんなはブルーベリー臭いなんて言うけれど私は全然臭くない。毎日ブルーベリーおじさんのブルーベリーばかり食べているから鼻がおかしくなったのかしら。それより私は忙しいの。水平線が何色かこの目で確かめなくちゃいけないの。

またお腹が空いちゃった。ブルーベリーじゃお腹いっぱいにならないわ。やっぱりお魚が食べたいわ。魚釣りおじさんは蝶ネクタイなんかつけて紳士みたいな格好をしているの。それなのに全然紳士じゃないの。ただではお魚をくれないの。お金がないと釣れないよなんていじわる言うんだからたまらないわ。でも銀色のお金を渡すとすぐにお魚が食いつくの。嘘みたい。まったくお魚を釣っているんだかお金に釣られているんだか分からないわ。大人ってそういうものなのかしら。それより私は忙しいの。水平線で待ち合わせをしているの。もうすぐウサギに会えるはず。約束したんだから。

水平線はまだ続いているみたい。水平線に色なんてないみたい。水平線はどこかしら。待ち合わせ場所はどこかしら。ねぇウサギったらいったいどこにいるの?

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楽弥の夏休みの自由研究。魚釣りおじさんの帽子のてっぺんにお金を入れると魚が釣れるからくり貯金箱。その隣でウサギを作る希舟につくりばなしをひとつ。

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