白衣を着た猫



「この家に猫がきてくれて嬉しいよ」キャットフードをぽいっと口に放り込んで友人が言う。「楽弥も希舟ちゃんも大きくなってきたこのタイミングで猫がきてくれて本当に嬉しいよ」キャットフードを噛み砕きながら友人が繰り返す。「猫がいると家族がひとつになるんだよ。喧嘩した時も猫がクッションになってくれるんだよ」無類の猫好きの彼はそう熱く語るとキャットフードを呑み込んだ。

確かに猫を飼ってからというもの「ずー!ねず!ねずみ!」という子供たちの浮かれた声が家中に響いている。ややこしいが、ねずみという名の猫である。ふたりは暇さえあれば猫を膝の上に乗せてどれほど自分になついているかを自慢し合っている。猫を飼うことに難色を示していた妻もねずみがどうした、こうした、そんな話ばかりしている。佐原に越してきて三度の冬を古びたストーブひとつで乗り切ったというのに、ねずみが寒いだろうとあっさりこたつを用意した。これまで耐えてきたあの寒さは何だったのだろうと思うほどこたつのある、いや、猫のいる冬は幸せなものだ。

猫のノミが気になり、動物病院に連れて行くことになった。帰ってくるなりふたりが寄ってきた。「ねずの病院どうだった?」と楽弥。「病院の先生ってねずのお話し分かるの?」と希舟。「先生なんだからちょっとくらい分かるんじゃない?」と楽弥。「でも先生って人間でしょ?」と希舟。いたずら心が働いた私は「人間に猫の言葉が分かるはずないよ。がっくんもきっきぃも分からないでしょ?動物病院っていうのは猫には猫の先生。犬には犬の先生がいるんだよ」「まじか。すげー」楽弥は目を丸くする。きりん組の希舟は驚いた様子で訊いてくる。「きりんは?」「もちろんきりんの先生。きりんの病院は教会みたいに屋根が高いんだよ」来年らいおん組になる希舟が続ける。「らいおんは?」「もちろんらいおんの先生。らいおんの病院は結構大変でさ。おとなしくしてないと先生に食べられちゃうんだよ」「こわー」楽弥は興奮している。純粋なふたりとの会話に私まで楽しくなってしまい、もう後戻りできないところまできてしまった。

猫に詳しい友人いわく、ねずみは毛がふさふさだから寒い国の猫らしい。ちょうど同じ頃、楽弥が小学校の図書室で借りてきた犬猫図鑑を広げて「ねずがのってたよ。ねずはロシアの猫なんだよ」と教えてくれた。そこにはサイベリアンと記されたそっくりの猫が写っていた。「ロシアって雪が降ってたところだよね」モスクワの空港で飛行機を乗り継いだことのある楽弥はロシアという響きがたいそう気に入ったらしく「家にロシアの猫がいるんだよ」と小学校で言いふらし、子供たちが猫をあやす道具を持って家に遊びに来るようになった。

これまで気にしたこともなかったが、私の周りは不思議なくらい猫好きが揃っている。人間と話すよりも先に回廊に横になり猫と遊んでいる友人もいる。私も幼い頃から犬や猫を飼っていたが、なんとなく犬は可愛がるもの、猫は放っておくもの、そういうものだと思っていた。だから家にいた二匹の猫はどちらも遠い存在だった。だが、ねずみは犬のように甘えてくる。肉球をぺたぺた押しつけてきたり、顔をすりすりしてくる。楽弥と希舟は猫の真似をしてねずみと遊んでいる。友人が家に来る度にふたりとねずみがそっくりだと言う。言われてみるとまん丸な目とすぐに人の膝の上に乗ってくるところはよく似ている。素直に喜んでいいのか分からないが、ねずみが三人目の子供のようにも思えてくる。

猫のムシが気になり、また動物病院に連れて行くことになった。ねずみを抱いた希舟が訊いてくる。「猫の先生って白いお洋服着てるの?」「もちろん着てるよ。先生だからね」その情景を思い浮かべながら私は答える。「ミャー」白衣を着た猫がねずみに何やら訊いている。「ミャー」それにねずみが何やら答えている。もちろん人間の私に猫の問診など分かるはずもない。そうなってくると診察料はキャットフードになるのか。診察が終わるとねずみは先生にキャットフードを支払う。先生は手渡されたキャットフードをぽいっと口に放り込んだ。そんな想像が膨らむ。「ミャー」猫というよりはたぬきのような佇まいで、ねずみが首を傾げて鳴いている。



photo by : kentaro shibuya

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山羊の月

「あっ。猫の爪」夜空を見上げてまだ幼い妹が呟く。「あれは三日月って言うんだよ。そうだよね?」妹とさほど年の変わらない兄が父親に訊く。「違うよ。あれは山羊の角だよ」男は答える。「また嘘ばかり教えないでよ」隣にそう笑ってくれる妻がいたが、もういない。何ひとつ本当のことを言わない夫に愛想を尽かし「嘘つき」と言い残して家を出ていった。

それからも男は子供たちに様々なことを教えた。周りの大人たちはまた嘘をついてと冷たい視線を注いだが、男にとってそれは本当のことだった。自分の目で見たものを信じただけで、何ひとつ嘘なんてついた憶えはなかった。いくつもの丘を歩いて旅をしたから地球は丸くないと教えたし、その土地によって空の色が違うから太陽はひとつではないと教えた。そして不思議な夜の話をした。「なんか嘘みたいな話だね」夢中になって聞いていたふたりもやがて大きくなり「嘘つき」と言い残して家を出ていった。

あれはいつだったか。どこだったか。男は曖昧な記憶を辿る。丘を歩いていると一頭の山羊が男の後をついてきた。そこでは羊は衣服や食料になるために重宝されていたが、山羊は神を食べる悪魔として邪険にされていた。丘を越えて男が暮らす小屋に帰るまでついて離れなかった山羊は腹を空かせていたのか地面に散らばった黒い紙をひとつ残らず食べてしまった。それは文字で埋め尽くされた男の日記だった。紙が山羊の喉を通ると同時に頭の中の記憶が消えていく。地球が丸いことも太陽がひとつしかないことも。

真っ暗な小屋に窓から金色の光が差し込む。はっと我に返ると目の前には山羊がいて、その頭にはふたつの三日月が煌めいていた。

「あっ。山羊の角」「ほんとだ。山羊の月」遠く月夜の丘からふたりの声がする。

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嵐と猫

台風の夜は家が吹き飛ばされるのではないかと心配で眠れなかった。轟々と音を立てて雨風が容赦無く窓ガラスを打ち付ける。もう割れるかもしれないと覚悟していると、顔に冷たい水滴が垂れてきた。天井からの雨漏りに家中の鍋を総動員させて水滴を受けるが、明かり取りの窓が木枠ごと外れて一気に雨が吹き込んでくる。吹き付ける雨風で窓をはめ直すこともできず、回廊は一瞬にして水浸しになる。運悪く回廊に立て掛けてあったレイモン・ペイネのリトグラフもびしょ濡れになっている。風に吹き飛ばされて大木に引っ掛かった家のバルコニーに佇む男と女の姿。こんな嵐の日に濡れるなんて”恋の嵐のあと”という名にぴったりだと雨水を吸い込んだ作品を呆然と眺めていた。

夜が明けてアトリエに行くと、こちらも床が水浸しになっている。拭くどころの騒ぎではない。壁一面に掛けた刺繍の作品と妻のぬいぐるみが心配だったが、幸いなことに雨は壁の内側を伝って床に流れ込んだようで無事だった。ほっと胸を撫で下ろす。踏板の濡れたミシンの電源が入らなくて壊れたかと思ったが、それは停電のせいだった。それからしばらく停電が続いた。

「動物園に行きたい」と子供たちの声がする。保育園も小学校も停電で休みになったのだ。今日は特別な休みだからとふたりの希望通り動物園に行く。楽弥は動物を見る度に「あぁ家で飼いたいなぁ」と呟く。希舟もその気になり「きっきぃこれにしようかな」とキャンディーを選ぶかのようにワタボウシパンシェやコモンマーモセットという子猿のような動物を選んでいる。「これは飼えないよ」と説明するもふたりは納得しない。「じゃあクチャみたいな犬だったらいいの?」と訊いてくる。ルーマニアでいつも楽弥にくっ付いて歩いていた犬のことだ。クチャとはハンガリー語で犬という意味でそのままなのだが「クッチャン、クッチャン」と呼んで可愛がり、朝から晩までずっと一緒に過ごしていた。その時の楽しさが忘れられないようだ。返事に困ってしまった。

翌日もその翌日も停電が続き子供たちと一緒に過ごした。最初はふたりが行きたいところへ遠出していたものの、休みが一週間も続くと疲れてきて近くの公園で遊ぶようになる。「パパー。来てー」遠くから楽弥の声がする。「早く、早く」慌てる楽弥の方に走り寄ると、茂みの陰から目のまんまるなふわふわの子猫が顔を出した。生まれて間もないようで「ミャー」とか細い声で鳴いている。母猫とはぐれてしまったのだろうか、お腹が空いた様子で楽弥の指をぺろぺろ舐めている。それからずっと足下にくっ付いてきて離れなかった。「ねぇ飼ってもいいでしょ?」と訊く楽弥に「お母さん猫が探しているかもしれないから駄目だよ」と答える。一緒に遊びにきていた愛莉ちゃんが「お母さん来るのかな?来なかったら死んじゃうのかな?がっくんの家に連れて行きたいね」と言うと「俺もそう思ってるんだけどね」と子猫を抱きながら楽弥は捨て台詞を吐いた。

結局、日が暮れても母猫は現れなかった。そして今、子猫は家にいる。名はねずみ。希舟が「ねぇねずみ色だからねずみにしない?」と提案した。猫を他の動物の色で例えるなんてどうかと思ったが異論もなく決定した。「ねずみ元気かな?」と出先で希舟が口にする度に「えっ。ねずみ?」と訊かれるのは難点だが、私もねずみという名を気に入っている。ねずみみたいに部屋の隅っこをちょろちょろ走り回るからだ。そういえば、レイモン・ペイネの”恋の嵐のあと”にも風に吹き飛ばされている猫が描かれている。嵐と猫。偶然とはいえ、こうして嵐のあとにやってきたねずみとの生活が始まった。

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空と海とハイライト

「なんか空が海みたいに見える」小学校が始まる時間だというのに回廊で息子が空を見上げている。「ほんとだ、がっくん。あのさ、あの白い雲が泡ってことだよね」希舟がお姉さん口調で同意する。「違うよ。泡じゃないよ。波だよ」楽弥は面倒臭そうに訂正する。「そうだよ。泡と波は一緒ってことだよね」希舟は健気に続ける。「だから泡じゃないってば」兄のそっけない返事に妹の口はへの字に曲がり、目からは涙が溢れる。負けず嫌いの希舟は自分が間違っていることが許せないのだ。いつもの兄妹喧嘩に耳を傾ける。

空に浮かぶ雲を指差しながら「あれはサメ。あれはカメ。あれはエイ」「見て。エイのしっぽが切れちゃった」と楽弥が笑っている。気を取り直した希舟も「あれはイルカ。あれはイカ。あれはパパ」と庭で煙草を吸っている私を最後に指差して笑っている。そして回廊に置いてあったハイライトを見て「これも海」と言う。あの水色の煙草のことだ。それから空へと消えていく煙を見つめて「がっくん、雲って煙だよね?」と訊く。「違うよ。煙は毒だよ」と楽弥はまたそっけなく答える。

夏は暇さえあれば海に行っていた。子供たちは真っ黒に日焼けした。裸になると白い水着を着ているかのような境界線がある。私も幼い頃から海が好きだった。海水浴場ではない誰もいない海が好きだった。波が高ければ高いほど楽しくて、夏はいつもそこで泳いでいた。溺れた時の恐怖心もはっきりと憶えている。海に入り潮の匂いを嗅ぎながら水平線を眺めて、波に揉まれて海中の音を聴く。海は無になれる唯一の場所だった。

「パパー」浅瀬の方から両手を貝殻でいっぱいにした希舟が叫んでいる。はっと我に返り自分のことを呼んでいるのだと気付く。不思議と海にいると自分が子供に戻ったような感覚になる。「そんなに遠くに行っちゃだめだよ」と希舟が慌てている。怖がりの希舟は私が海に潜る度に「溺れちゃだめだよ。もう溺れちゃだめだからね」と目に涙を浮かべる。小さな体で家族が離れることを一番に心配している。それとは反対に怖いもの知らずの楽弥は海に飛び込んでくる。きっとこれは幼い頃の自分の姿なのだろう。波に揉まれながらも必死に泳ごうとしている。自分がした体験がいま目の前で起きている。あの時は助けてもらったが、いつのまにか自分が助ける番になっている。

海から上がり煙草に火をつける。ハイライトは美味しいから吸っているのではなくて、慣れで吸っている。ずっとそう思っていた。けれど実際は娘が言うように海のような水色のパッケージに惹かれているのかもしれない。ポケットに海が入っている。それが落ち着くのかもしれない。そういえば、同じハイライトを吸っている友人も海を見るのが好きだと言っていた。様々な国の海を見てきた彼女もきっとそういうことなのだろう。



photo by : mikako ichimura

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なるとの”の”

夏休み前に小学校で面談があった。「楽弥さんはひらがなの書き順がまだ正確ではないです。鏡文字になってしまうこともあります」宿題の束をめくりながら先生が淡々と話している。「そうなんです。ノートを逆さまにして文字を書くこともあるんです。ひらがなをひとつの形として捉えているみたいです」そう答えると、先生は言葉に詰まったような顔をして話題を変える。「でも図工はすごいんですよ。ピカイチです。絵も切り紙も夢中になって休み時間になってもやっているんです」

教室の後ろに切り紙がずらりと貼り出されている。名前を見ずとも遠目からあれが楽弥の作品だと分かる。いつだったか、保育園の廊下に貼り出された運動会の絵がどれも同じ構図のことがあった。きっと周りから影響を受けやすい時期なのだろう。楽弥の絵も似たり寄ったりで「みんなと同じ絵を描いて楽しい?」と訊いたことがある。楽弥は返事に困っていたが、家で描くのとは違う自分の絵を見て何かを感じているようだった。切り紙は濃い紺色の紙の上に幾何学模様に切った山吹色と薄紫色の紙が貼ってあった。その配色と複雑な模様は誰のものとも似ていない。上手い下手ではなくそれだけで安心する。自分の世界が素直に表現できていることに。

思い返せば、楽弥は小さな頃から工作が好きだった。大きなハサミを握ってよく切り紙も作っていた。百枚入りの折り紙が一日でなくなることもあった。切り紙には上も下も左も右もない。どこから見ても面白い模様に仕上がっている。一心不乱に紙を切り続けるその姿に感心していた。それがルーマニアから帰国した翌日から宿題を課せられるようになり、工作の時間はなくなってしまった。読んでいた絵本は教科書に変わり、握っていたハサミは鉛筆に変わった。ひらがなを文字ではなくひとつの形として認識するのも仕方がない。

三才の頃、初めて書いた”の”はなるとのようなぐるぐる模様だった。それから三年が経ち、渦巻き模様から徐々に文字らしくなってきたものの今も終点から逆に”の”と書いている。完成形は同じなのにひらがなには書き順というルールがある。これは自由に工作をしてきた子供にとって初めての制約であり試練なのかもしれない。本来なら親が教えるべきことなのだろうが、滅茶苦茶な書き順も鏡文字も愛おしく思えてしまう。それどころか「逆さまから書けるなんてすごいじゃん」と褒めてしまう。それは左右逆に靴を履く子供らしい光景をそのままにしておきたいと思うのと似ている。一度正してしまったらきっともう逆さまの世界には戻れない。

入学してすぐのこと。ロッカーに入れるランドセルの向きを注意された楽弥が帰り道に呟いた。「そんなの別にどっちでもいいじゃんね」「それは確かにどっちでもいいと思うよ」「パパも結構反対が好きだよね」「えっ?」「駐車場に車停める時もみんなと反対じゃん」「そうだね」「いつも下駄だし」確かに間違ってはいない。その会話をふと思い出して、面談の日に他の車に習って後ろ向き駐車をしてみた。すると「ボン」と鈍い音がして外に出る。そこにだけ突き出たうねる松の木に車の屋根が挟まっている。左右の白線を気にして後ろに下がったら上の木にぶつけたようだ。まぁそんなことはどうでもいい。罠にでも掛けられたような気分のまま急いで小学校へと向かう。

面談が終わって駐車場に戻ると、木に挟まった車を見て楽弥が体をよじらせて笑っている。「これわざとやったの?」わざとやる訳がない。何がそんなにも面白いのだろう。「パパならわざとやりそうだなぁ」とやけに楽しそうだ。やはり慣れないことをするものではない。自分のやりたいようにやらないとうまくいくものもうまくいかない。ひらがなも固く考えずに自由に書けばいい。工作の時間のように楽しんで書けばいい。

夏休み最後の夜、子供たちとラーメンを食べている。「あっ。きのの”の”だ」ピンク色の渦巻き模様を希舟が指差す。それを楽弥が箸ですくいあげて手の平に乗せる。そして確かめるように口を開く。「ねぇパパ。やっぱりこっちの”の”の方が格好いいよね?」私は黙って頷く。

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